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ようやく目当ての喫茶店に辿り着いた。この暑い中、随分歩かされた。汗で服が肌にへばりついている。店の扉は全開だった。冷房の風が全部逃げるのでは、と気になる。
入店して室内を見渡す。重厚な木造りの本棚が並び、隅には振り子時計が鎮座していた。錆びついたおもちゃがショーケースに並べられている。一歩踏み出すと床が軋んだ。何より薄暗い。目が悪くなりそうだ。
カウンターの中では店員が二人、お喋りに励んでいた。案内されるのを待つがこちらに一切目もくれない。席は全部空いている。勝手に座れということか。
「好きなところに座っていいのかな」
橋本に問う。
「一応声をかけようよ。俺達に気付いていないみたいだし」
仕方ない。すみません、と声をかける。お喋りは止まらない。ちょっと苛つく。
「すいませぇん」
声を張り上げると舌打ちをされた。嘘だろ。仕事をするから金が貰えるのであり、お前らのお喋りに本来賃金は発生しない。もし店の将来を熱く語っているのだとしても、客の案内が先だろう。その時、厨房から見慣れた顔が現れた。おぉ、とそいつは感嘆の声をあげた。
「田中に橋本。よく来てくれたなぁ」
綿貫がフロアに出て来た。
「綿貫、久し振り。随分痩せたな」
親友は、まあな、と自分の顔を撫でた。痩せたというよりやつれたか。
「びっくりしたぞ。こんなところにダブルワークなんて」
「しばらく会えなかったし、観光がてら会いに来ちゃったよ。こっちは標高が高いから涼しいのかと思っていたけど、俺らの地元より暑いな」
橋本も口を挟む。
「そうなんだよ。冬は寒いし雪も凄いんだけど、夏は暑くてさ。損した気分だぜ」
「じゃあ雪かきとか大変でしょ」
「滅茶苦茶疲れる。慣れていなかったのもあるけど、今年の雪かきが今から憂鬱だよ」
いつものやり取りに心が落ち着く。やはりこの三人でいるのは心地好い。一階はがら空きなのに、二階の席に通された。階段が急で昇りにくい。二階の床も大分軋んだ。こちらにも本棚と振り子時計、錆びたおもちゃの並んだ棚が置かれている。開け放たれた窓の向こうでは太陽が全力で核融合反応に勤しんでいた。
「あ、メニューを忘れた。取って来るわ。好きなところに座って」
階下へ戻る綿貫の背中は小さく見えた。木造りの椅子に腰かける。尻に物凄い違和感を覚え慌てて立ち上った。座面の真ん中が緩い曲線に彫られている。この窪みに尻をあてがえってか。
「変な椅子」
「座り心地が死ぬほど悪い」
「あいつ、何でこんな店でダブルワークをしているんだろう」
「後で訊こうか。喋る時間が取れるといいな」
大きく息を吐く。深呼吸か、溜息か。腕組みをしてメニューを待つ。橋本はスマートフォンを取り出し店内を撮り始めた。俺にカメラを向けたので、無表情で指を二本立てる。そこに、お待たせ、と綿貫が帰って来た。
「メニューとお冷。それにサービスのハーブティー。ちょっと熱いけど腹からスッキリするぞ。今日は暑いからな」
嘘だろ、と言いかける。ハーブティーはまだわかる。ホットて。この暑いのに、ホットって。だがサービスにケチをつけるほど野暮ではない。ぐっと堪える。
「ありがとう。悪いな、ポットいっぱいに入れてもらっちゃって」
礼を口にしつつ橋本は綿貫にカメラを向ける。置きかけたポットを顔の前に持ち上げ、首を傾けた。左フックを食らった人みたい。
「しかし遠いところを来てくれて本当にありがとう。昨日着いたんだっけ」
「そうだよ。昨日は一日観光してた。今日はホテルを出てここに直行」
「そっか。すまんな、飲みにも誘ってくれたのに行けなくて」
「仕方ないよ。ダブルワークじゃ忙しいでしょ。平日は今まで通り会社に勤務、休日はこの喫茶店で働いているんだよね」
「そう。だから休みが無くてさ。それにこの辺を通るバスが二十時で終わっちゃうのよ。車で行くと飲めないし」
「まあまた地元でゆっくり飲もう。今年の年末は帰れるよね」
「そのつもりではいるよ。もしかしたら年越しイベントとかやるかも知れないけど、俺は休みたいな」
頬杖をついて二人を眺める。うむ、明らかに綿貫の顔色が悪い。そりゃ休み無く働いていたらこうなる。何故そんな無茶をするのか。詮索はしたくないが流石に心配だ。やはり後で訊こう。その前に注文するか。咳払いを一つして分厚いメニューを開いた。
「たっけ」
反射的に口を突いて出た。え、と綿貫がこちらを見る。
「高い?」
「いや、言ってない。そんなこと、言ってない」
手を振り誤魔化す。しかし視線は離れない。見てる。奴はまだ、こっちを見ている。
「綿貫、お勧めとかないの」
橋本が救命器具を投げ込んでくれた。偶然か気遣いかはわからないけど、とにかく綿貫はあっちへ向き直った。ナイス橋本、助かった。こっそり親指を立てる。
改めてメニューを見る。コーヒー一杯九百円。トースト二枚で七百円。地元野菜で彩った特製サラダ、とやらに至っては千二百円だと。写真を凝視する。この草に牛丼三杯分の価値があると、そう言うのか。
「ごめん、セットメニューは無いんだ」
今度は聞き捨てならない台詞が飛び込んで来た。
「モーニングも無いのかぁ」
「ごめんな」
単品で頼まなきゃならんのか。ページを次々捲る。あっという間に終わりへ着いた。紙とビニールが厚いだけかい。そして確かにセットの案内は無い。
「じゃあ俺、アイスコーヒーとトースト。あと目玉焼きも付けて」
橋本が笑顔で注文した。暗算する。二千百円だ。朝飯に二千百円。それも普通の、平凡な三品。橋本、お前は何故笑っていられる。綿貫も、どうして笑顔でオッケィ、などと答えられる。
正直なところ、サービスのハーブティーと水だけで済ませたくなっていた。腹は減った。しかしどう考えても高い。それだけ美味いのかも知れないが、俺はよっぽど不味くなければ別にいい。だけど親友の働く店に来て何も注文しないわけにもいかない。
「俺、アイスコーヒーとトースト」
千六百円分の注文を喉の奥から絞り出す。オッケィ、と綿貫は親指を立てた。
「三十分くらいかかるけどのんびり待ってて」
三十分。一日の四十八分の一。牛丼屋なら注文して食って帰れる時間。
「何もしない時間って、案外心地良いもんだからさ」
綿貫は窓の外を見やった。汗が頬を伝っている。しばし沈黙の後、ふっと息を吐いた。
「ごゆっくり」
覗き込むような姿勢で告げ、ゆっくりと去った。足音が消えるのを確認して俺は身を乗り出した。
「あいつ、おかしくない?」
「何が」
一つも心配を感じられない橋本の言葉に頭を抱える。
「凄いやつれたじゃん。顔色も悪いし」
「ダブルワークで疲れているんでしょ」
「そもそも何でこの店で働いているのか、疑問でならない。あいつ、こういうの嫌いじゃん」
「こういうのって?」
「意識高い系だよ」
ホームページを見て多分そうだと思い、実際に訪れて確信した。この喫茶店、いや何とかカフェーは意識高い系のお店だ。そして綿貫はその界隈に近寄らない奴だった。
「そういや綿貫、苦手だったね。全身が痒くなる、とか言っていた」
「それがさっきの物言い、聞いただろ。ちょっと染まってるじゃん、意識高い系に。いいよ、染まるのは自由だから。でもこの店にはおかしいところがたくさんある。コーヒーとトーストと目玉焼きに三十分ってかかりすぎ。どんだけ手際が悪いんだ。内装だって床は軋むし階段は段差が高いし全体的に埃っぽくて暗い。二千百円も取るならもっと設備に金をかけろや。そんで何だよ何もしない時間って。ただの待ちぼうけだろうが」
「どうした田中。急に苛々したな」
「口に出したら無性に苛ついた」
「それにお前が頼んだの、コーヒーとトーストだけじゃん」
「そこはどうでもいいだろ」
「確かに今のお前には必要かもね、ぼーっとする時間」
橋本の言葉に息を呑む。目を瞑り、歯を食いしばった。落ち着け。叫んではいけない。ここは親友の働く店だ。迷惑をかけては駄目だ。ゆっくりと瞼を開ける。内装が目に入り、両手で自分の膝を思い切り叩いた。やっぱり無理。苛々する。
「おい、どうした。凄い音がしたぞ」
階下から綿貫が駆け上がって来た。
「俺が膝を叩いた」
「それだ。一発どすーんって凄いのが響いたからびっくりした。どうした。何で膝なんか叩いた。痛くないか」
猛烈に言いたい。お前こんな店で働いてんのかよ。こんな、意識高い系のお店でよ。そう訴えたい。あと、さっきの一撃が階下まで響くってどんだけ安普請なんだ。
「いや、別に」
しかし理由があって綿貫はここで働いている。安易に糾弾すべきではない。落ち着いてから訊くべきだ。
「安普請なんだな、ここ」
橋本が言っちゃった。俺の内心と同じ言葉を口走っちゃった。ん、と綿貫が首を傾げる。
「あれだけで下に響くって建物として駄目だろ。耐震補強とかした方がいいよ」
耐震補強まで薦めちゃった。綿貫は、いやあと頭を掻いた。まあ、うん、と目を逸らす。
「余裕ができたらな。じゃあ俺、調理に戻るわ」
ごゆっくり、とまた覗き込まれる。床を軋ませ再び退場した。
「調理も綿貫がやっているんだね。あの店員さん達の仕事は何だろう」
「お喋りだろ」
考えたくもない。あいつらが目に入らないという点では二階で良かった。
「それにしても暑いな。冷房は無いのか」
「見た感じ、無さそうだね。自然の風を楽しめってことじゃない」
「一面にしか窓が無いから風が吹き抜けねぇよ。こんだけ物があるのに扇風機も無いのか」
傍らの本棚を覗く。装丁が革造りの本が並んでいた。一冊開いてみる。何語かわからない文字が羅列されていた。誰が読めるんだこんな物。隣の本も、その隣も同じだった。どうやって買った。通販か。橋本に中身を見せる。
「これで暇を潰せってのか」
「そっちに日本語の本もあるよ。どれも背表紙の端に、人生が変わるって小さく書いてあるけど」
「啓発本一冊で変わるほど安い人生歩んでねぇよ」
「あとはスローライフとかコミットとか」
「三十分どころか三十秒も読んだら投げ捨てるわ」
本を戻し座り直す。振り子時計の音がやかましい。外からは蝉の声が飛び込んでくる。
「うるせぇなぁ」
ぼやく俺。橋本は鞄から扇子を取り出した。左手に持ち、顔の横で勢いよく広げる。
「これぞ左団扇」
「バカ」
団扇じゃなくて扇子だし。
ハーブティーをカップに注ぐ。湯気が景気良く立ち昇った。更に汗が噴き出る。その時、ふと夏休みの登校日を思い出した。高校からの帰り道、三人で自販機のジュースを買ったっけ。じゃんけんに負けた綿貫がコーンポタージュを買わされて、おまけに舌を火傷していた。
「暑い日に熱い物を飲むって、想像よりも地獄だぞ」
そう文句を垂れていたあいつが、今は冷房の無い店で灼熱のハーブティーを夏に提供する男になってしまった。
やっぱりおかしい。綿貫はしばしば思い付きで突拍子もないこと、例えば三十歳を越えたというのに突然三人で缶蹴りを始めたり、小説家になって印税生活を目指すと宣言して初めての応募で落選したら途端に諦めたり、そういう馬鹿みたいな行動をとる奴だ。やつれるほど休みなく働くこと自体に違和感は無い。だが熱量の矛先がおかしい。意識の高そうな生き方は面倒だからしない。綿貫はそういう人間だと俺は思う。どうしてこの店なのか。何故やつれるほどダブルワークを続けているのか。あいつの身に何があった。
「どうしたの、急に黙り込んで」
橋本が扇子で風を送って来た。
「お前、夏に綿貫がコーンポタージュを買わされたこと、覚えているか」
「自棄になって勢いよく飲んだら舌を火傷した、あれか」
「そう。そのことを思い出していた。あいつ、やっぱりおかしい。心配だ」
うん、と橋本が顎に指を当てる。のらりくらりとしていたが、こいつも引っかかるところがあるのだ。橋本は突如一階を覗きに行った。すぐに戻って親指を立てる。
「お客さん、一人もいない。どうせ配膳は綿貫だろうから引き留めて話を聞こう」
「駄目じゃん。客が一人もいないって」
「俺達には都合がいいけどな」
ハーブティーをちびちび飲みながら綿貫を待った。途中、汗のかき過ぎで眩暈がしたので慌てて水を口にした。すっかり湯気が立たなくなった頃、お待たせ、とようやく戻って来た。
「アイスコーヒーとトースト。あと橋本は目玉焼きな」
メニュー同様皿も分厚い。その上に置かれたトーストは。
「十六枚切り?」
滅茶苦茶薄い。皿が厚い分、余計に際立つ。
「カリカリに焼き上げてあるぞ。コーヒーに合うんだ」
そう言う綿貫は目を合わせない。疑念が確信に変わる。ごゆっくり、と去ろうとする腕を掴んだ。
「お前、おかしいと思っているだろう」
足が止まる。振り返らない。何が、と答える声は上擦っていた。
「この店がおかしいって、お前も思っているだろう」
手に力を込める。引き寄せると力なく向き直った。
「値段の割に薄っぺらいパン。目玉焼きが一つ五百円。暑い日に熱いハーブティーを出すのは勝手だけど、冷房が無いおかげでこっちは脱水症状になりかけた。しかも風が通らない部屋の造りだ。お前だって汗だくじゃねぇか。おまけに建物は安普請で、そのくせ読めもしない本がこんなに集められている。金のかけどころがおかしい。何だよあの錆びたおもちゃ。レトロじゃねぇよ。ガラクタだよ」
綿貫は黙り込んでいる。今度は橋本がスマートフォンの画面を見せた。
「ホームページもさ。店のコンセプトが二十行も書かれているのに言いたいことが全く伝わらない。写真も暗くてよく見えない。メニューをスキャンじゃなくて直撮りしているから、ところどころ見切れている。あと、地図が丸と三角と棒だけしか描かれていなくて説明の言葉も無ければ起点も終点も目印も載っていないから、役に立たなかった」
「結局地図アプリで検索してここまで来たもんな」
「綿貫に送って貰ったリンクじゃなくて、地名と店名を入れて検索してみたら引っかからなかった。この店って知名度が物凄く低いでしょ」
「なあ。何でこんなところでダブルワークなんてしている。事情があるんだろ。俺達には教えてくれないか」
綿貫は俺の手を振りほどいた。エプロンの裾を握り締め俯いている。胸元に、ピースとアルファベットで書かれているのに今気付いた。
「その通りだよ」
綿貫は静かに、震えながらそう言った。
「おかしいんだよ。この店は」
「やっぱりお前も気付いていたんだな」
顔を上げるや否やテーブルに手をつき、こちらへ身を乗り出した。
「こんな埃っぽくて薄暗い、蹴ったら崩れそうな建物で、俺みたいな素人が作った普通のコーヒーと薄っぺらいパンに千六百円を払わせる。サラダに至っては単品で千二百円。その辺の農家から仕入れた草にドレッシングぶっかけただけのサラダが牛丼三杯も食える値段だ。おかしいだろ」
「お前、この店がすげぇ嫌いだな。その割にちょっと意識高い系に染まっていたけど」
「あぁ、嫌いだ。空調が無いおかげで夏の厨房は死ぬほど暑い。地獄の釜の中かと思うほどだ。冬は流石にストーブを出すが、灯油を補充するのが超面倒臭い。おまけに一冬で三回もボヤ騒ぎが起きた。ガラクタを並べた棚を掃除しないから積もった埃が飛んで引火したんだ。奇跡的な確率だと思っていたら三度も起きた。奇跡じゃなかった。必然の事故だった。掃除をしようとしたら、レトロでアンティークなアトモスフィア―が無くなるから駄目だと言われた。アトモスフィア―の意味がわからなくて調べた。ならばエアコンを付けようと提案したら、ネイチャーを感じられないから、とこれも却下された。いっそ火事で燃え尽きて自然に還ってしまえと願った」
「滅茶苦茶不満が溜まっているな。本当に、何でこの店で働いているんだよ。やつれるまで頑張ってさ」
綿貫は、俺達の顔を交互に見た。いよいよ一番の謎が解ける。
「好きな子がこの店で働いていたから」
しょーもな。口に出しかけ踏みとどまる。事情や重みは人それぞれ。俺の物差しを基準にしてはいけない。
「初めは彼女の親父さんと仕事で知り合ってな。取引先の人だったんだけど、俺と同い年の娘がいる、儲けは出ていないけど一生懸命カフェを経営しているって接待の席で教えてくれた。そして、機会があれば行ってみてくれとチラシを渡された。一目見て、意味わかんねぇなと捨てたくなった。でも大口の相手だから媚を売りたかった。貴重な休日を潰してここを訪れた。席に案内してくれた店員さんの名札に取引先の人と同じ名字が記されていた。訊くとやはり娘さんだった。店同様、本人も意識高い系かと警戒したが案外そんなこともなく、同い年なせいもあって会話が弾んだ。店を出る時、また来てね、と手を振ってくれた。俺は、意識高い系も悪くないじゃん、と己の偏見を正した」
「お前の意識は死ぬほど低いな」
「次の出社日。早速お父さんから電話がかかって来た。娘が楽しかったと言っていた、わざわざ来てくれてありがとう、と感謝を述べられた。電話を切った俺は思った。お父さんと顔見知りなら娘さんを貰うハードルが下がってはいないか、と」
「ハードルに股間を打ち付けろバカ」
「それから俺は足繁く店に通った。食費と交通費で生活は苦しくなったがそれでも通い続けた。その内、彼女以外の店員は全く働かないことに気付いた。ある日、二階のこの席で、彼女にほとんど一人働いているじゃないかと言ってみた。彼女は認めた上で、色々事情があってね、と笑った。経営のことはわからないが、その笑顔は痛々しく見えた。俺はその場で意を決した。週末だけでも手伝うよ。給料も交通費もいらないから。そう伝えた」
「完全な下心だろ」
「惚れてほしかったんだ」
「最低な動機」
「ダブルワークの日々が始まった。客として店には慣れていたが、労働環境としては最悪だった。意識が高くても実利はついて来ない。汗だくで赤字の帳簿を見て実感した。働き始めると、彼女は会話に片仮名語を多用するようになった。そして、さっきも言った通り俺の提案には肯定的でなかった。ある日、土日は綿貫さんに任せた、と店に来なくなった。ここ八か月は業務上のやり取りしかしていない。彼女の顔も見ていない。ちなみにお父さんの契約は取れた。店の方もありがとう、と握手を交わした」
綿貫はテーブルに頭を打ち付けた。この音も厨房まで届いているんだろうな。
「助けてくれ。俺もうとっくに辞めたいんだ。疲れた。うんざりだ。でもお父さんのことを考えると気まずい。なあ、どうしたらいい」
「彼女と結婚するか、店を辞めてお父さんに体がもちませんでしたって言う」
橋本の、こういう時に遠慮なく切り込むところ、好き。
「付き合ってもいないのに結婚なんて出来るわけないだろう。八か月も顔を見ていないんだぞ」
思わず吹き出した。八か月も会っていない相手と結婚か。
「脈無しもいいところだな。気まずくてもさ、辞めた方がいいよ。報酬も無い。休みも無い。お前が期待した見返りも無い。お父さんに難癖つけられたら言い返せ。一年半、タダ働きさせられました。交通費も自腹でしたって。まともな親ならお前じゃなくて娘を叱るよ」
「タダ働きでいいって言ったのは俺なんだけど」
「それに全力で乗っかって来たのは娘さんだろ。完全無給で交通費自腹って、いいように使われ過ぎ。お前もいい格好をし過ぎ。気まずさはその代償ってところだな」
やれやれ。それにしても綿貫が意識高い系に染まり切っていなくてよかった。染まるのは自由だが、いつもの綿貫が俺は好きだ。後はどうするか。本人次第だ。
「綿貫がどうするかは任せるけど、今年の年末はまた三人で飲みに行こう。去年は来られなかったんだから」
橋本の言葉に綿貫の顔から表情が消えた。
「年末は、過労で倒れていたんだ」
「お前やっぱ今すぐここ辞めろ」
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