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 目の前に置かれた黄色い楕円形から、バターの香りがする。それを囲む丸い線は、皿だった。もう一度黄色い物体を見ると、それはオムライスだった。  周りには、私以外に誰もいない。換気扇が回る音だけが鳴り響く部屋。私は真横に立てて置かれたケチャップの蓋を開け、オムライスに向かって文字を書いた。 『孤独』  赤く滲んだ『孤独』は少しずつ形相を崩していく。私はただ、それを眺めている。 「おい」  すると、右の方から男の声がした。振り向くと、そこには正人がいた。 「あれ、正人。どうしてここに?」  しかし、正人は私の問いなど聞こえなかったようで、持っていたスプーンで私の『孤独』を塗り広げていった。 「お前は孤独じゃないさ」 「でも、私は」 「大丈夫」  すると今度は、左側から女の声がした。振り向くと、そこには沙耶香がいた。 「あなたは孤独じゃないから」  そう言って、沙耶香は持っていたスプーンでオムライスを掬い、私に食べさせてくれた。 「温かい」  私は何より、舌で感じたぬくもりを口にした。 「それが、望んだものだろう?」 「それが欲しかったものでしょう?」  私は二人の問いかけに、「うん」と断言した。 「おい」  その声が現のものであることに気がついたのは、重いまぶたをゆっくり開いた後だった。先ほどまでしたバターの香りは、いつの間にか磯の香りにすり替わっていた。 「正人?」 「そうだよ。お前、こんなところで何やってんだよ」  私が辺りを見渡すと、一面が青ざめた砂浜だった。私はすぐそこにあった白い貝殻を拾って、空に掲げてみた。 「綺麗だね、この貝殻」  人の幸せを願うように、尖りがない白い貝殻だった。 「たしかに綺麗だけどさ。いやいや、だからこんなところで何をしているんだって聞いているんだよ」 「何って、孤独を噛み締めていたんだ」 「孤独を噛みしめる?」 「だって、私は正人からも、沙耶香からも見放されたから。全部私自身が悪かったのはわかっている。わかっているけど、やっぱり寂しい気持ちには勝てなかった」 「それは俺も一緒だ」  私は僅かに正人の方へ視線を向けた。ドクドクする心だけが鳴り響く。 「俺だって寂しかったよ。お前と会えなくてさ」 「うちもだよ」  後ろから、ジャリジャリと砂を踏み締める音が聞こえた。振り返ると、黒いコートに身を包んだ沙耶香が眠そうな顔をして立っていた。  「沙耶香」 「びっくりしたんだよ。今日の夢の中で、急にあなたが出てくるんだから。しかも、うちに対して熱弁しちゃってさ」 「俺も見たよ、お前の夢。そしてその場所が、この海岸だった。だから朝起きてここに来たんだ。なんだか、お前がいるんじゃないかって思って」 「まったく同じ。うちもこの海が見える場所が舞台だった。起きたとき、無性にここへ行かないといけないって気持ちになったんだ。そうしたら、あなただけじゃなくて正人くんもいるからびっくりだけど」  私は交互に入ってくる二人の話を聞いて確信した。私の訴えは本当に二人の脳へと伝達していた。あの猫のおかげで、二人はここにいる。私のそばにいる。 「あれ、猫がいない」  気がつくと、私を包んでいたブランケットは無くなっていて、猫の姿も見当たらなかった。 「猫? この辺に猫なんていたか?」 「うちは知らない。あなた、夢でも見ていたんじゃないの?」 「いや、たしかに私は猫と話をしたんだ」  しかし、私の言葉に対して二人は軽快な笑いを起こした。 「おいおい、寂しすぎて幻覚が見えるようになっちゃったのか」 「それは重症だよ。かわいそうなことしちゃったね。ごめんね」 「俺も悪かったよ。大丈夫だ、これからも一緒に遊ぼう。まあ、寝るのは無しってことで」 「それはうちの特権だから。まあ、恋人じゃないけどさ」  そして二人が私を挟むようにして横に腰を下ろし、身体を寄せ合ってくれた。 「ありがとう、二人とも」 「いいってことよ。だってここがお前の居場所だろう?」 「そして、ぬくもりを感じる場所でしょう?」 「うん」 「それは俺も同じだ」 「うちも同じ」 「みんな、同じ」  やがてこの街に夜明けが訪れた。そして目を細めたくなるほどに眩しい光が、私を朝に染めた。  それからしばらく、私たちは日の出づる方向を眺め、とめどなく溢れる愛おしさに酔いしれるのだった。
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