1.香りに助けられた俺

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『車内は大変混雑しています。なかほどまでお進みください』  バスに乗り込んだ俺は新鮮な空気を求め、窓のそばへと歩いた。  車酔いするようになったのは、高校に通うこの路線に乗りはじめてからだ。  曲がりくねった道路に、一時間一本しかないダイヤのせいですし詰めの車内。立ったまま無傷で済むのは、三半規管がよほど丈夫な奴だろう。  ――今日は吐かずに済むといいけど。  吐くことに慣れてきたから、せめて周りに広げないようにとエチケット袋を常備している。今日も鞄の中にあるな、と確認したとき、乗車口から乗客が乗り込んできた。 『押さないよう奥へお進みください』 「これだけ混んでて無茶言う」  隣に立ったイケメンがアナウンスにおどけるので、俺も周りもプッと噴き出した。体育の授業で見たことがある奴だ、隣のクラスだろう。  はは、と笑ったとき、吸い込む空気の清涼さに驚いた。スッと鼻を通る香りはセンスのいい雑貨屋みたいな清々しさだ。香りひとつで周りが明るく見えてくる。  窓から見える山は青々と樹が茂っている。もう新緑の季節なんだ、とバス通学になってはじめて車外の景色を楽しめた。 『城山高校前、降りる方を先にお通しください』  バスの扉が開くと同時に、学生達が一斉に降りはじめる。いい香りの主とも離れてしまった。バスを降りた彼に、道行くクラスメイトが声を掛けている。 「仁科、小テストの勉強やってきたか?」 「いや全然」  仁科っていうのか……。  あとを追うようにしてバスを降り、名札を確かめた。  四十分間近く立ちっぱなしだったのに、胸の悪さもない。……あいつの香りで助かったんだ。  授業を受けるあいだ、仁科にどうやって香りのことを聞こうかと考えていた。同じ路線で同じ停留所だから、住所も近くだろう。帰りのバスで一緒になれたら、降りるときに違和感なく話しかけられそうだ。よし、これで行こう。  だが実際は、そんなにうまくいかなかった。  俺は帰宅部だから、授業が終わってすぐのバスに乗ったが、仁科は見あたらなかった。部活をやってる可能性もあるもんな。また明日の機会を待つか。  その代わりか、椅子に座れた。だが家まであと半分というところで気分が悪くなってきた。こういうときの対処法として、詰襟のボタンを外しボトムのベルトも緩める。 「はぁ……」  窓を少し開けて空気を吸い込むと、一瞬気分がましになった。途中で降りたほうが楽になれるのは分かっているが、そうすると次に来るのは高校生で満員御礼の車両だから、条件がより悪くなる。  万事休すだ、このバスに乗ったままがいいんだ。そうあきらめかけたとき、覚えのある香りがした。鼻を抜ける清々しい芳香――。 「仁科……?」 「そうだけど。同じクラスだっけ?」  意外そうな声に顔を上げると、詰襟をきっちりと一番上まで留めた仁科と目が合った。 「隣のクラスの児島 祐(こじま たすく)。ちょっと聞きたいことがあって」 「今日は一つ手前のバス停で降りるけど、それでいいなら」 「助かる、ありがとう」  話すあいだ、仁科の香りに癒されていた。この秘密を探れるなら、帰りにバスひとつ分歩くくらいなんでもない。  朝は酔いはじめる前に香りを吸っていたから爽快だったが、今回はすでに調子が悪くなっていたせいか、すぐに酔いが収まるわけでもなく、ぐったりと椅子にもたれかかっていた。 「児島だっけ、具合悪いのか?」 「ちょっとバスに酔った」  そのとき、『次、停まります』という車内アナウンスが流れた。と同時に仁科が手を伸ばしてくる。 「ここで降りるぞ、肩につかまれ」 「いいのか?」 「真っ白な顔して何言ってるんだ」  仁科にとっては初めて会うのに、親切にしてくれるから驚いた。不思議な香りだけでなく、イケメンで親切だなんて出来た奴だ。 「階段あるから、気をつけろよ」  肩を担がれると、香りがより鮮明になる。どうしてこんないい匂いがするんだろう。高校生なのに、フレグランスでも付けているのかな。姉ちゃんの香水は死ぬほどキツいけど、こいつは上手く付けてるんだろうな……。  などと考えているうちにバス停のベンチに下ろされた。 「まだ具合悪そうだな。聞きたいこと……って言えそうか?」  そう尋ねてくるので、首を振る。周りには同級生が数人降りていたから、聞かれたくない。 「五分くらい歩いたら目的地だ。そこで休めばいい」  抱えられながら歩きだすと、周りに緑が増えてきた。石造りの鳥居が目の前に見える。 「神社か。よく夏祭りに来たな」 「渡すものがあるんだ。親が関係者で」 「へえ」  鳥居をくぐると、急に体が軽くなった。胸の圧迫感も消え、息がしやすい。 「あ……、あれっ?」 「どうした?」 「急に楽になった。……スッキリした」  狐につままれたような気がする俺に、仁科が言いにくそうに呟いた。 「児島は憑かれやすいみたいだからな……鳥居は邪気を祓ってくれるから、悪いものが吹き飛ばされたんだろう」 「えっ、お前そういうの見えるの?」 「いや、ハッキリとは見えない。集中して、やっとこの辺りになにかいるかも……ってぼんやりとした感触が掴める感じだ」 「へぇ……そういうもんなのか」  まぁ俺にはなにも見えないけど。 「バスで具合悪そうにしてたときも、児島に話しかけられてから雑霊につきまとわれてるって気が付いたくらいだ。神社の息子のわりに鈍いんだよ」 「えっ?」  神社の息子って言ったのだろうか。 「この神社、俺の家なんだ」 「いつも隣のバス停で降りてるけど……?」 「じいちゃんの頃はここで寝泊まりしてたらしいけど、親父が家を建てたんだ。祭りのときとかうるさいくらいだから」 「そうなんだ……」  たしかに太鼓やお囃子の音が始終していると生活しにくいだろう。 「なんか色々聞いちゃって悪いな。……俺が聞きたいこと、言うよ。仁科からなにか良い匂いがしてたんだ。スッとした森みたいな香り。俺、前にもバス酔いしかけたときにその香りで楽になったからお礼がいいたくて」 「香り? 勉強で集中するためにアロマオイルを焚くから、それかな。」  坊さんみたいだな、と思ったが口には出さない。神社と寺って別物だったよな。 「それかも。よかったら、香りの名前を教えてくれないか」 「昨日使ったのはラベンダーだな。ほかにも色々使うけど、今度家に見に来るか?」 「ありがとう。見させてくれ」  手水舎(ちょうずや)のあたりで話していると、赤い袴の巫女さんが話しかけてきた。 「弘くん、新しい祓串(はらえぐし)持って来てくれたのね、助かるわ。ちょうど今から祝詞を上げるところだったのよ」 「間に合ってよかったです」  ギザギザとした紙がついた長い棒をサブバッグから取り出した仁科は、人のいい笑みを見せた。お祓いするときのふさふさした棒は祓串というのか。 「そうだ、祝詞(のりと)上げるのって田山さんでしょ。俺とこいつがいてもいいか、聞いてきます」 「社務所でコーヒー飲んでたわよ。私ももう行かなきゃ」 「ありがとう」  サッと立ち去った仁科を見送って、手水舎の近くにあったベンチに座った。  仁科に話しかけるだけだったのに、俺も一緒に祝詞を聞くことになっている。もしかして俺が『憑かれやすい』から気を回してくれたんだろうか。  ――良い奴だな。バスで話しかけただけなのに肩を貸してくれるし、香りのことを聞いても迷惑がらないし。部外者の俺に祝詞を上げるところにいさせてくれようとしてる。神社で育つと礼儀正しくて親切に育つのかな。 「児島、お待たせ。今から拝殿に行くから付いてきてくれ。せっかく神社に来たんだ、お祓いして綺麗さっぱり落としてもらうといい」 「いいのか? お金持って来てないけど」 「見学ってことにしてるから金はいらない。それなら問題ないだろ」 「もちろんだよ! ありがとう、会ったばかりなのにこんなに親切にしてくれて……」 「気にすんな。同じ路線バスだろ。なにかの縁だ」  照れくさそうな顔を見て、お礼をしたいなと思った。なにも思いつかないけど、俺が仁科に助けてもらったようなことだといい。そう思いながら拝殿に向かった。 「……かしこみかしこみ申す……」  烏帽子に膨らんだ袴を穿いた本職の神主さんに祓串で頭を清めてもらうと、厳かな気持ちになる。唱えている祝詞は呪文みたいだけど、よく聞けば古い日本語だ。 「仁科もこういうの唱えられるの?」  ひそひそ声で肩をつつくと、ニヤッと笑われた。 「最後のフレーズだけは何度も聞いてるから、そこだけな」  意味ないじゃん、と思ったが、神主さんに悪いので黙っていた。たしかに見よう見まねでは身につかないだろう。
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