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2.
「あれ、プリント忘れた」
平松さんの悲しみが分からないまま放課後になった。帰宅部の僕はある程度のクラスメイトが教室から出て行くのを待ってから帰宅する。今日もしばらく待って、人が少なくなった頃を見計らってからさぁ帰ろうとくつ箱まで下りたのだが、数学の課題プリントを机の中に忘れたことを思い出して取りに戻った。
色々な格好をした生徒たちとすれ違う。あれは弓道部、アレは卓球部、あれは野球部。どこからか楽器の音もする。大体の生徒がなんらかの部活に入っているので、教室には誰も残っていないだろう。
ガラガラと教室の後ろ側の引き戸を開けてまず目に飛び込んできたのは、一人の女子生徒だった。僕の席の後ろに座って顔を両手で覆っている。あぁ、まだ誰かいたんだ、お邪魔しまーす、と一歩入ったところでそれが誰か気づいて、慌てて後ろ手でドアを閉めた。
「……あ、山本君……」
顔を上げた平松さんは目元を乱暴に擦って僕を見た。瞼は少し赤く、目はやはり深海の色をしている。
誰もいない教室でひとり、平松さんは泣いていた。そこへ僕が忘れ物をして教室に入ったという偶然は、僕には必然に思えた。神様が与えた、僕へのチャンス。もう、聞かないわけにはいかなかった。
「どうしたの? なにか悲しいことでもあったの?」
自分の席の椅子を引いて、横向きに腰掛けた。机の中に手を入れて一枚のプリントを探す。精一杯の何気なさを装った。
「平松さん、一週間休んでたけど……」
「飼ってる猫が、死んだの」
間髪入れずに返ってきた。ファイッオー、という数人の声が微かに聞こえる。締め切った窓側、グラウンドで運動部が走っているのだろう。
「そっか、猫が」
手に紙の感触が当たったのでそれを取り出した。探していた数学の課題プリントだ。
「長い間飼ってたの?」
「うん。十年くらい。保護猫なんだけど、すっごく懐いてたの」
「それは……悲しいね」
うん、と頷いた彼女から、女子の甘い匂いがした。クッキーだとかチョコレートだとかいった甘さではない。花のような、優雅な甘さといえばいいのだろうか。よく分からないが、ちょっとだけ僕の胸をざわつかせた。
そこで教室に沈黙が落ちた。微かに聞こえる声は「イッチニーサンシッ」という掛け声に変わっている。瞼の赤みが若干引いた平松さんは沈黙に耐えかねたように口を開いた。
「このこと、誰にも言わないでね」
「え……」
「泣いてたことも、猫が死んだことも」
「あ、うん。分かった」
それから彼女は「ごめんね、変なとこ見せて」と微笑んで、帰っていった。僕は彼女が出て行った後ろのドアから目が離せない。
なんで泣いていたことも、猫が死んだことも誰にも言ってはいけないんだろう、と僕は考えてはいなかった。それよりももっと本質的な事――深層心理について考えていた。
どうして平松さんは嘘をついたのだろう、と。
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