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 小学四年生の時、弟か妹が流産した。その時の母の落ち込み様は今でも覚えている。僕に気を遣わせまいと「赤ちゃん、いなくなっちゃった」となんでもないように微笑んではいたが、その目からは深い悲しみの色とともに涙がハラハラと流れていた。座っていても立っていても、お笑い番組を見ていてもキャベツを切っていても、自然と涙が溢れてくるのか、常にその瞳は濡れていた。そんな母に対して父と僕はギュッと抱きしめることしかできなかった。 「ねぇ。隣の佐々木さんちの犬が死んだのって、去年だったっけ?」  夕飯を食べながら目の前で同じものを食べている母に声を掛けると、母は淡いオレンジ色の目をシパシパと瞬かせた。 「なに、急に。食事中に話題にすることじゃない気がするけど」 「ごめん。でも気になって」 「うん。確か去年の夏じゃなかったかしら」  隣の家の佐々木さんは柴犬を飼っていた。飼い主以外にはあまり懐かない犬種らしいが、佐々木さんちの柴犬は人懐っこくて、散歩中に見かけると尻尾をヘリコプターの羽のように振り回して僕に飛びついてきていた。  そんな愛犬を失くした佐々木さんの目の色は、確か青みがかった紫色だったはずだ。平松さんの目の色より深くなかった。悲しみの度合いが少しだけ違うということだ。  平松さんの悲しみの色を、僕は見たことがある。今は穏やかな色をしているが、過去に深い悲しみを味わった人。 「なに、お母さんのことジロジロ見て。気持ち悪いわね」 「いや、別に……」  ――母が流産した時と平松さんの目の色は、よく似ていた。  翌日、教室に入るとすでに平松さんは席に座っていた。なにをするでもなく、頬杖をついてボーっとしている。前から近づくと、なにも映していないような虚ろな瞳が僕を捉えた。 「おはよう、山本君」 「おはよう、平松さん」  彼女の目の色は昨日と少しも変わらない。察している僕にとって、挨拶とともに微笑みかけてくる仕草が痛い。「大丈夫?」の言葉がお腹の底から湧いてくる気配がして、慌てて目を逸らした。  僕は小学五年生の時、同じように表面では笑っているけど目の色が落ち込んでいる女子生徒に向かって「大丈夫?」と聞いたことがある。「なにが?」と問われ「落ち込んでるから」と言うと、その女子生徒は異星人を見るような鋭い目つきをして僕にこう言った。 「気持ち悪いんだけど」  必死に隠しているのには事情があって、誰にも悟られたくないから無理して笑うのだと、その時理解した。だから僕は感情が読めたとしても自分の中だけに留めておくのだ。  その日の放課後、今度は古典の課題プリントを忘れて教室に戻った。二日も連続で忘れ物をするなんて、我ながらアホだ。昨日と同じように後ろのドアをガラガラと開けて、自分の席らへんに目をやる。今日も女子生徒がひとり座っているのを見てゆっくりとドアを閉めると、その女子生徒が僕を見た。 「……今日も忘れ物?」 「あ、うん。お邪魔、します」  今日は泣いていなかった。そのことに少しだけホッとする。平松さんの前の机の中を覗き込んで、一枚のプリントを取り出した。 「課題、家でやるの? 真面目だね」 「え、逆に平松さんは家でやらないの? 不真面目だね」 「お、山本君ってそういう人だったんだ」  そういう人ってどういう人?  ふふふ、と口元を隠して笑う平松さんだけど、心の奥に深い悲しみを抱えていることが見える。僕はこたつの中にいるのに大きな氷の塊を胸に抱いているような気持ちになった。 「ねぇ、少しお話しない?」  平松さんは唐突に僕の椅子の背をトントンと叩いて座るよう促してきた。断る理由もないので素直に座る。今日もグラウンド側からは「ファイッオー!」という元気な声が聞こえてきた。昨日よりやけに声が大きいなと思ったら、窓が少しだけ開いていた。 「山本君ってあんまり人と戯れないけど、なにか理由でもあるの?」  ド直球の質問になぜか背筋が伸びた。平松さんの大きな瞳が僕を覗き込む。僕はツツツ、と視線を教室のドアへ移して、質問に質問で返した。 「平松さんは昨日愛猫を亡くしたって言ってたけど、どうして嘘ついたの?」 「…………」  平松さんの顔から、笑顔が消えた。驚くほど分かりやすく、悲しくなるほど痛々しい。そんな顔をさせているのは紛れもなく平松さんの目の前にいる僕である。きちんと清算しなくては、とは思うがどうやって? 「山本君はさ……」  平松さんの声が震えた。一度下唇を内側に入れる。言おうか言うまいか悩んでいるようだ。開いた窓から「イッチニーサンシッ」という元気な声が聞こえてきた。僕は海の底のような色をした平松さんの目をジッと見ていた。全てを見透かされると思ったのか、平松さんは顔ごと背ける。やがて彼女は口を開いた。 「愛する人を亡くしたことが、ある?」  
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