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4.
風が吹いて平松さんの茶色い髪の毛が揺れた。一瞬の静寂。
――愛する人を亡くしたことが、ある?
平松さんの声がやけに耳に残った。
その口振りでいうと、彼女はペットではなく人を亡くしたことになる。なんとなく予想はついていたけれど、『愛する人』という曖昧な表現が引っかかった。平松さんに彼氏がいるという噂は聞いたことがない。とすると、やはり家族か。
「平松さんはご家族の誰かを亡くされたの?」
言葉を選んで発言したつもりだった。母親が流産した時の落ち込みようを知っているから、軽くならないように気を配ったつもりだった。
「家族、じゃない」
「え?」
「家族じゃなくて、愛してたの! 血の繋がらない兄を、愛してたの!」
僕を見た平松さんの目に、涙が浮かんでいた。ぷっくりと溜まっている悲哀は瞬きとともに頬を流れる。一滴、二滴。拭われなかった涙は、平松さんの机の上に落ちた。
「お兄さん、いたんだ」
そこで平松さんはハッとした表情になった。なんでそんなに親しくもないクラスメイトにカミングアウトしてしまったのか、後悔しているのだろうか。そこで席を立つかと思ったが、彼女は諦めたのかポツポツと話し始めた。
「……うちはずっとお母さんと二人で暮らしてたんだけど、私が小学五年生の時に再婚して、その再婚したお父さんがお兄ちゃんを連れてきたの。連れ子同士の再婚だった。五歳上のお兄ちゃんは高校一年生で、とっても優しかった。本当の妹みたいに可愛がってくれて、そんなお兄ちゃんに私はいつの間にか惹かれてたの。でも、不毛な恋でしょ? 誰にも言わずに自分の胸の中だけに留めてた。目の前にいてくれるだけでじゅうぶんだって、言い聞かせてた」
平松さんは一旦そこで言葉を切った。ポケットからタオルハンカチを取り出して目元を拭う。こういう時僕がスッとハンカチを差し出せたらいいんだろうけれど、あいにくそういった粋なものは持っていなかった。
平松さんの話は続く。
「就職したお兄ちゃんは家を出てひとり暮らしを始めたから、私もたまに遊びに行ったりして、恋人ごっこを勝手に楽しんでたの。誰に迷惑をかけるでもない、自分ひとりの自己満足だった。だから、言わないつもりだったの。でも……」
後悔の味が口の中で広がっているのだろう。平松さんは唇を内側に巻き込んだ。顔を歪めて痛みに耐えている。目は、黒色に染まっていた。もう、どこを見ているのか分からない。
「……好きだって、言ったの?」
そっと訊ねると、平松さんはコクリと頷いた。
「そしたら、顔を真っ赤にして『俺もずっと好きだった』って、キスしてくれた。そんなの夢の中でしかありえないことだと思ってたから、本当に信じられなくて……でも、夢じゃなかったの。現実で、私たちは両想いだったの」
「うん」
「誰にも内緒で、付き合ってた。周りからは『仲の良い兄妹だね』って言われてたけど、『本当は恋人なんです』って言いたかった。でも、二人だけの秘密っていうのも悪くなくて、こっそり愛し合ってた」
机の上に置いてタオルハンカチを握りしめている平松さんの両手が、震えはじめた。これから先はきっとつらい話だ。それでも彼女は続ける。
「……その日は、二人で服を買いに行ったの。大通りの横断歩道で立ち止まって『お揃いの服でも買っちゃう?』なんて言いながら信号を待ってて……そしたら、そしたら、子どもがっ」
平松さんの呼吸が怪しくなった。僕は咄嗟に平松さんの手を握った。
「いい、その先は言わなくていい」
「優しくてっ正義感の強い人だったからっ……身体が勝手にっ動いたんだとっ」
「分かったから。僕には伝わってるから、大丈夫。ゆっくり息吐いて」
「はぁっはぁっ」
「吐いて、吸って、吐いて……」
平松さんの乱れた呼吸が僕の声に合わせて徐々に収まっていく。涙で濡れた顔はぐしゃぐしゃで、僕の手にも彼女の涙が数滴落ちていた。
再び風が吹く。秋も終わりに差しかかり、冬の冷たい空気が肺に侵入してきた。
心が痛かった。平松さんの泣きじゃくる姿に手を握ることしかできない僕はあまりにも未熟で、どうしたらいいのか分からないことがひどくもどかしい。
二人きりの教室に平松さんの嗚咽だけが響いている。
当たり前だと思っていた日常が突然なくなるというのはどういう世界なのかと考えて、それは多分歩いていた道が突然なくなるのと同じなのではないだろうか、と思った。真っ直ぐな道でも曲がりくねった道でも地面はそこにちゃんとあって、踏み出せば前に進むけれど、その道になんの前触れもなく突然ぽっかりと穴が開いてしまったら落ちるしかない。平松さんは今まさに穴に落ちている途中なのだ。
大袈裟かもしれないが、這い上がれるかどうかは僕に懸かっている気がした。
平松さんの呼吸が元に戻った頃を見計らってそっと手を離すと、平松さんは机の下に手を引っ込めた。
「……なんか、取り乱してごめんね。すごく変な話もしちゃった。誰にも言わないでね。落ち着かせてくれてありがとう」
平松さんは早口でそう言って席を立とうとしたので慌てて「僕は感情が読めるんだ」と言って引き留めた。
「感情が、読める……? なに言ってるの山本君……」
「目の色が感情によって染まって見えるんだ。嬉しければ暖かい色、悲しければ冷たい色っていう具合に。平松さんは一週間前までは暖かいオレンジ色だったのに、ここ最近は深い悲しみの色――深海に染まってる。このままだと平松さんの心が壊れちゃうんじゃないかと、僕は思ってる」
「目が染まる……?」
誰にも言わなかった自分の秘密を打ち明けるというのは結構勇気がいることで、平松さんが僕に対してそれを行ってくれたのなら僕も返さないとと思った。彼女なら気味悪がらないだろうという、曖昧な憶測だったけど、案の定平松さんは嫌悪感を見せなかった。
その代わり、見せたのは怒りだった。
「山本君には関係ないよね。大切で愛する人を亡くしたことない君には、私の気持ちなんて分かるわけない」
「……僕にだって、大切な人を亡くしたこと、あるよ」
「え?」
平松さんの瞳が、僕を捉える。僕は彼女を真っ直ぐ見返した。
「君だよ。平松紗菜さん。僕の、好きな人」
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