雪の夜

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 そこだけ、異世界のようだ。  横臥(おうが)する女の、滑らかな背中を眺めながら、男はそう思った。  男の肌は浅黒く、寝具も暗褐色。一方、彼の隣で眠る女の肌は純白。暗色に取り囲まれた中にあって、どこか浮いたような印象を与える異質な存在だ。  ──(いな)、今はもう違う。  そこまで考えて、男は自らそれを否定した。確かに彼女の肌は白い。しかし今、その白磁の上には暗い色が──彼が彼女を蹂躙した痕跡が、(おびただ)しいまでに広がっている。その(さま)は、さながら地面の上に散りぢりになり、醜く朽ちていく山茶花(さざんか)の花弁だ。  それでも、彼女の輝きは変わらない。確かにこの腕に囲い、暗がりの世界へと引きずり込んだというのに。  男がどれだけその身を支配しようとも、決して(かげ)ることのないを光を宿し、女は眠る。  男はゆっくりと、指先を女の背中へと伸ばした。そのまま、緩やかな曲線を描く白い世界を、そっとなぞる。  ひんやりとした彼女の肌が、男の熱でわずかにゆるんだ。  女が身じろぎした。その拍子に、彼女の白銀の髪が、絹糸の軽やかさで肌を滑る。触れれば瞬時に指先から凍りつくかの如き硬質の流れは、男の熱を拒絶するように、彼女の白い背中を一層輝かせた。  男は、女の背中から手を離した。  長い(まつげ)を震わせ、彼女がゆっくりと目を開ける。極域の夜空を舞うオーロラを切り取った瞳が、男を映した。 「……どうして」  夢の続きを見ているような、銀鈴(ぎんれい)の囁き。男は我知らず口元を綻ばせた。 「何がだ?」  地中に深く染み入る水を連想させる男の低い声に、女は彼の手に触れる事で応えた。 「どうして、手を離したの?」 「起こしては悪いと思った」 「良いのよ、起こして」 「疲れただろう? 手酷い真似をした」 「言ったでしょう? 酷くして良いの」  (けが)れを知らない白さを(たた)えたまま、女は蠱惑的に微笑んだ。男の手に触れる彼女の指が、彼の指に絡む。男は身震いした。己の理性が、熱と共に奪われるのを感じた。 「俺から全てを搾り取ろうというのか?」 「まさか。私は貴方の熱に(ひた)りたいだけ──それに、最後に私の全てを奪うのは、他でもない貴方でしょうに」  女の虹色の双眸が、本物の虹と同じ緩い弧を描く。男は、彼女の目尻に唇を寄せた。虹の終わりには宝が埋まっているという逸話が、男の脳裏をかすめる。  男は、女を仰向けにして覆い被さった。彼女の長い髪が、翼のように敷布の上に広がる。男と寝具、二つの暗色の狭間にある女の白さは、深夜に浮かぶ下弦の月を思わせた。  男は、彼女のシミ一つない白い首筋を見つめた。そこにあったはずの、男が先程の情事できつく吸い付いた跡は、今は影も形もない。  男の黒い瞳に映る我が身に気付いた女が、部屋の窓を見た。正確には、窓の外を。 「ああ、また降ってきたのね」  暗い夜の下で、しんしんと雪が降っていた。女の銀色の睫が切なげに伏せられ、自身の白い肌に影をつくる。  新雪が世界を覆う。女の白さが増し、男のつけた証が、静かにかき消える。 「消えたなら、また付ければ良い」  男が、女の首筋に顔を(うず)めた。肌の上を這う生暖かい感触に、女は甘い吐息を漏らす。 「それは──っ、あぁ──ずっと?」  嬌声と共に、白い背中がしなる。彼女の細い腰を抱いた男は、互いに触れたところから二人の存在が滲み、混じり合うような錯覚に襲われた。  錯覚──いや、現実だ。女は男を侵食し、やがて眠らせる存在なのだから。  男は、深い笑みを刻んだ。 「ああ、ずっとだ」  厳かな宣言のような声音。女は大きく目を見開き、 「嬉しい」  次の瞬間、大輪の氷華でその(かんばせ)を彩った。 「貴方が眠るまで、抱いて。大地の王」 「そうしよう。そして俺が目覚めた時、其方(そなた)は俺の腕の中で融けるが良い。雪の女王よ」  女の(とろ)けるような囁きを唇で受け止め、男は自分の(いらえ)ごと、彼女の唇を貪った。  雪に閉ざされた部屋の中、女の肌に、一際鮮やかな花が散る。 ─了─
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