廃人同然の鬱エピソード②

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廃人同然の鬱エピソード②

2つ目の心療内科にかかっている時に2度目の鬱になりました。  私が考えられる要因は2つ。    1.仕事のストレス    双極性障害になり、他者と関わる仕事は出来ないと思い、実家の手伝いをしていました。  しかし、取引先の担当者のミスがひどく、損失が大きいことも多々あり。私は人を叱るとか苦手なのに、厳しく指摘しないといけない。ものすごいストレスでした。  自分がしっかりしないといけないというプレッシャーが半端なく、強い不安と葛藤していました。    2.家族の病気    私が32歳の4月。姉の乳癌が発覚。  定期健診を受けていましたが、粘液癌というタイプで、しこりが分かりにくかったのです。  お風呂に入ろうとして下着を脱いだ時、乳首から血のかさぶたがポロリと落ちました。  ただ事ではないとすぐ病院に行き、ステージ2bと判明。    姉とはとても仲が良く、姉妹というよりは親子のようで、もう一人の母のような存在。  甥と一緒にいると、私が長女で3姉弟に見えたらしく、姉がお母さんに間違われ、 「私は12歳で妹を産んでないわよ」 とプンスカ怒っていました。子供達が成人したら姉妹で海外旅行に行こうとか、母が旅立った後は同居しようと話していていたくらい仲が良かったです。  姉は才色兼備で、ギャグセンスもあり皆を楽しませてくれる可愛くて素敵な人。頼りになる姉が死ぬかもしれない現実が辛かったです。    同時期に母が大腸がんの疑いに。検査結果はポリープで一安心しましたが、脳梗塞の後遺症で軽度の麻痺や片目を失明していて要介護2。気丈な母なので病気を気にもせず行動制限はしていませんでしたが、家族としては1人行動をさせるのは心配なので、なるべく一緒に出かけていました。 大好きな母と姉を同時に失うかも知れない恐怖、私がしっかりしなくてはというプレッシャーが重くのしかかり、2度目の壮絶な鬱状態になりました。    同年5月。姉が手術をした結果、既にリンパに転移していて、ステージ3。    手術の待合室で家族や親戚と話している時に、自分の異変に気付きました。皆の会話がすごく早く聞こえるのに対し、早口の私がゆっくりしか話せなかったのです。  椅子に真っ直ぐ座っているのがしんどく、意識も曖昧で、なんとか椅子にもたれかかっていました。    6月。母と姉に歯医者に連れて行ってもらいましたが、待合室で座っていられず、母に膝枕をしてもらいながら横になって順番を待っていました。(完全予約制でほとんど他の患者とは同席しないので邪魔にはならなくて良かったです。)  7月。私は家の中を這うようにしか移動できなくなっていました。二度目の鬱状態ですが、明らかに前回より悪化していました。    この鬱での最大の恐怖は幻覚。  兄が反戦主義で、幼い頃から「火垂るの墓」や「風が吹くとき」など戦争関連のアニメや映画、特番を強制的に見せられていました。それに伴い、凄惨な遺体の写真などもたくさん見てきました。    鬱になり、目をつぶると、東京大空襲で黒焦げになった焼死体の親子の写真、「火垂るの墓」で火傷した全身包帯グルグル巻きのお母さんの姿が鮮明に浮かびました。(近年は残酷なのでこのシーンはカットされているそう)。  24時間、グロいシーンが頭の中をぐるぐる駆け巡っていて、昼間でも頭に浮かび、目を開けていても見える気がします。怖くて動けない。まさに地獄でした。    この症状を主治医に訴えても、薬を増やされるだけ。  とうとう生理も止まり、姉が主治医(男性)に伝えたところ、 「生理がない方が寝てりゃいいんだから楽だろ!」 とまた暴言をはかれ、姉が違う病院を探してくれました。  この頃から少しずつ生理不順になってきました。    8月。糖尿病のかかりつけの大学病院の主治医に相談をしたら、血糖値改善をメインにして内科に入院しながら、精神科の医師にも診察してもらえるようにしてくれました。    精神科の医師は、前の心療内科で大量の薬を処方されていて、どれが合わないのかわからないからと、いきなり全ての薬を断薬したため酷い禁断症状がでました。    食べれ反射的に吐いてしまう。首さえ自力で動かせないので寝返りも出来ません。シャワーは看護師に全身を洗ってもらいました。 「うぅーーうぅーー」  と無意識に喉から唸り声が出てしまいます。  健康な人なら驚く事にジャンプが出来なくなっていました。足が地面から離れないのです。私は足の指が器用で、お行儀が悪いけど足の指で床の物を挟んで持ち上げたりできますが、指をグーパーに動かす事さえ出来なくなっていました。  体が硬直したままで、30代前半なのに 「四十肩」 になり、腕は上がらず、痛みが強く、背中に痛み止めの注射を打っても効かなかったです。    そんな寝たきりの私を心配してくれた若い男性の看護師の方がいました。担当看護師ではないのに、仕事終わりに会いに来てくれ、これ以上体が硬まらないように、両足首を持ってグルグル回す体操などをして動かしてくれました。  その優しさにどれだけ元気づけられたでしょう。ただ、この時は医療脱毛をしていなかったので、すね毛ボーボーで恥ずかしかったです。鬱でも乙女心はありました。    もう再起不能だと感じた私は渾身の力を振り絞って、母に、 「今まで育ててくれて、ありがとう」 と言いました。まだ回復の兆しは全くなかったです。    それでも母に。 「自分の敵は自分。でも、自分の味方も自分。自分に負けちゃダメ!」 と励まされました    その言葉を聞いて、自力でも何とかしなくてはと思い、入院前に退屈しないようにと大好きなSMAPの27時間テレビのノンストップライブを携帯に録画しておいたので、それを観る事にしました。最初は3分も座って観ていられなかったけど、続きが観たいからと少しずつ肘置きに掴まりながらでも座る時間を延ばしていきました。  身体を動かす為に、まずは病棟の端から端まで赤ちゃんみたいに伝い歩きで歩く練習をしました。産まれたての小鹿並に足がワナワナしましたが諦めませんでした。    最後に命運を分けるのは「気力」かもしれません。 9月。   SMAPのライブがありました。いま思えばラストライブ。友達が当選した分を含めて二回行ける事になりました。    友達と待ち合わせした時間直前まで私は謎の吐き気があり、普段は吐かないのに何度も吐きました。行くのは無理だと諦めていましたが、姉が大人用のオムツを履かせてくれ、兄が車椅子に乗せて東京ドームまで連れて行ってくれました。    友達は私の様子を見て驚いたと思いますが、何も聞かずに会場内で車椅子を押してくれました。本当にありがたかったです。    会場内の段差では近くにいた男性ファンが数人がかりで車椅子を持ち上げてくれました。その優しさが嬉しかったけど、ちゃんとお礼を言えたかも定かではないです。その節は本当にありがとうございました。    SMAP五人のパワー、家族と友達の思いやりのおかげで、その日を境に少しずつ快方に向かっていきました。    SMAPは命の恩人。いつか感謝の気持ちを伝えられたら幸せです。    好きな存在から生きる活力をもらえたのは、鬱を脱出し始めた証でもありました。    10月。2回目の転院をしました。  新しい主治医は若い女性で、薬を見直し、毎回熱心に話を聞いてくれました。    毎日の記録をつけ、家事でも何でもいいから何か1つ習慣を作り、鬱モードで動けない日は少し頑張って1つやり、躁モードで動き過ぎる時は抑えるようにアドバイスされました。    時間と共に症状が改善されていき、なんとか身の回りの事が出来るようになりました。    姉を車椅子に乗せて、通院の付き添いが出来るまでに回復。  病院が終わると姉は、 「頑張ったご褒美」 と言って美味しい物を食べたり、お土産を買ってくれました。美味しい物を食べると痛みが和らぐという記事を読んだことがあるので、姉の欲求は体からのサインだったのでしょう。    抗がん剤など見ている私まで辛い治療が続きましたが、姉はいつも笑顔で人を笑わせようとする強さがありました。そんな我慢強い人なのに、 「お母さんやぴーたんが癌にならなくて良かった。こんな痛みは私だけでいいのよ」 と言ったので、母と隠れて泣きました。    姉は子供の前では決して痛がる素振りを見せず、毎朝玄関まで学校の見送りをしていました。  姉は、 「死んだ後、いつも笑っていた人として思い出されたい」 と言い、本当に強かったです。私には到底、真似出来ません。
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