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夏川との講習が始まって一週間が経とうとしていた。お互いにだいぶ打ち解け、夏川の指導はとても解かり易く、メリハリのある教え方をしてくれる。時に軽い雑談を挟みながら、自分の知識の豊富さをさり気なく披露し、真南人を決して退屈させたりしなかった。
真南人はまだ、夏川という人間を講師という立場でしか知らない。彼がどんな家に生まれ、どんな育ち方をして今に至ったかなど勿論知らない。未だ、やりたいことが定まっていないことと、料理が好きなことしか情報はない。本当はもっと夏川のことを知りたいと思っても、真南人元来のコミュニケーション下手と人見知りが関係してしまい、それが叶うことは難しかった。
真南人は今まで、人に対して誰にも興味が湧かなかった。一人でいろと言われたら、いつまでも一人でいることができる寂しい人間だった。多分、人より頭が良すぎるせいで、自分の心はどこかアンバランスなのかもしれない。無感情で無関心。自分はずっとこの性格のまま、親の言われた通り医者になり、特に大した情熱もないまま、淡々と仕事をこなす日々をぼんやりと想像していた。
でも、夏川に出会い、真南人の感情は少しずつ変化しているのかもしれない。まだはっきりとは分からないが、自分は夏川と勉強をすることが待ち遠しいし、楽しいと感じる。その気持ちが、真南人の体温を僅かに上げているような、そんな気もする。
しかし、都内の気温が今季最高を記録した昨日。エアコンが苦手な真南人は、窓を閉め切った部屋で一晩を明かしたせいで、ひどい寝不足になり、今日は珍しく夏川の指導を半分夢の中で受けていた。
「どうしたの? 昨日寝てないの?」
夏川は真南人の顔を覗き込みながらそう尋ねた。
「あ、はあ。す、すみません」
はっとして真南人はそれだけを言うと、自分の腕時計に目をやった。
「あの。少し休憩を貰ってもいいですか? 目を覚ましてきます」
「うん。いいよ。俺も付き合う。飲み物でもおごるよ」
真南人と夏川は教室を出ると、自販機のある一階のロビーまで階段を使って降りた。
「何がいい? 眠気覚ましにコーヒーにする?」
夏川は自販機の前に立ち、真南人に振り返りそう言った。
「いや。僕、コーヒー飲めないんです。炭酸がいいです。……あ、これで」
真南人は透明なサイダーを指さすと、ポケットから財布を取り出そうとした。
「いいよ。このくらいおごらせてよ」
「でも……」
「律儀だね。真南人君は。育ちがいいんだね」
夏川は素早く小銭を自販機に投入すると、真南人が選んだサイダーのボタンを押した。
「がごん」という音と共に落ちてくるサイダーを二人は目で追うと、夏川がそれを取り出し、真南人の前に差し出した。
「はい。これで目、覚ましてね」
優しく微笑みかける夏川に、真南人の胸はぎゅっと苦しくなった。
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして。あ、あそこのソファーに座って飲もう。俺はカフェイン中毒だからさ、缶コーヒーは不味いって分かっててもついつい飲んじゃって、後で後悔するんだよね」
そう言って夏川は、微糖の缶コーヒーを迷わず選んだ。
並んでソファーに腰掛けて、お互いの飲み物を飲みながら、ガラス越しに見える外の景色にぼんやりと目を向ける。真南人は夏川とのこんな何気ないやりとりに、自分の心がたまらなく安らいでいるのに気付く。夏川から発せられる気が真南人を癒し、優しく包み込むような感じに、真南人はしばし静かに酔いしれた。
「真南人君といると落ち着くな。真南人君ってすごく静かだし、それが俺に合うのかな? なんか真南人君ってさ、絶対、前世は位の高い人物だったと思うよ」
突然夏川が意味不明なことを言った。真南人は困惑しながら返答に頭を悩ませた。
「何ですか? それ……ああ、でもそうだな、夏川さんの前世は何だろう……やっぱり特別なオーラがあるから、それなりの有名人じゃないですか?」
「あはは、それなりって……でも不思議だな。真南人君に言われると素直に嬉しいよ」
「そうですか?」
「そうだよ。だって真南人君、あんま他人に興味なさそうだし」
「ああ。まあ、確かに」
ふっとお互いの視線が絡まり合った。まるで示し合わせたみたいに。
「そろそろ戻ろうか。目、覚めたよね?」
「あ、はい。覚めました。ありがとうございます」
二人はそろってソファーから立ち上がると、窓から燦々と太陽の光が差し込む階段を使い、教室まで戻った。
教室に戻ると、真南人の眠気はだいぶ落ち着くことができた。炭酸の強いジュースのおかげで、幾分か頭がスッキリする。真南人と夏川は自分たちの席に隣同士で腰かけると、早速問題集を開き、一緒に採点を始めた。自分がどの問題でつまずくのかを夏川と確認し合っていると、お互いに熱が入ってしまい、二人の体が徐々に近づいていく。流石に肘と肘がくっ付いていることに気づいた時は、真南人は慌てて自分から体を離した。その時、夏川が不思議そうな顔をして真南人を見つめた。
真南人は生まれてから多分一度も、同性とここまで体を近づけ合ったことなどない。人とべたべたするのが好きではない真南人が、肘同士が触れ合うほど体を寄せ合うなどあり得ない。
「どうしたの? まだ眠いの?」
夏川は心配そうに、上目遣いで真南人にそう言った。
「い、いえ、なんでもないです」
どうして夏川となら平気なのだろう。
真南人はそんな疑問が自然と自分の中から湧いてくることに戸惑った。
「集中できない? また休憩する?」
夏川は優しくそう言うと、いきなり両手を上げて伸びをした。その時、夏川からとても良い香りがした。男性から香水の香りを感じたのは、真南人はこれが初めてだった。
さわやかに鼻腔を翳める夏川の香りに、真南人の意識が軽く薄れる。
真南人は慌ててこめかみを両指で押さえると、自分の意識を戻すことに集中する。
この塾に通う目的を見誤らないと。自分は医学部に進学して医者になるのだから。
そんな呪文のような言葉を自分の頭に叩き込む作業を、真南人はもう何度もしている。今回もまた、独り言になる手前でそう呟くと、夏川に気づかれないように、自分の椅子を少しだけ横にずらした。
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