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あの日から一週間が経つが、真南人は未だにあの時の夏川の姿をありありと思い出すことができる。今、自分の隣で勉強を教える夏川の横顔を盗み見みながら、真南人は、夏川という人間が、本当はどんな人間なのかということをもっと知りたいと思う。ただ、気を抜くと、その知りたいという強い欲望が口元からうっかり零れてしまいそうで、真南人は、ここ数日間全く勉強に集中できていない。
真南人は一旦心を落ち着かせるために、トイレに行くと言い席を立った。夏川はそんな真南人をそっと見上げると、「行っておいで」と優しく言った。
用を足して手洗場に向かうと、同じ学校の横山司(よこやまつかさ)がやけに丁寧に手を洗っていた。
「あ、柏木……久しぶり」
滅多に話したことがない横山に声を掛けられ、真南人は驚いて水道の蛇口を開ける手を止めた。
「あ、そうだね。久しぶり」
真南人はぶっきらぼうにそう言うと、早くこの場から去りたくて、素早く蛇口を捻った。
「あのさ……俺見ちゃったんだよね……お前の講師。あいつやばいよ」
「え?」
真南人は急に嫌な予感がして、慌てて水を止めると、横山を凝視した。
「一週間前かな、あの講師、男とキスしてたんだ。俺たまたま道玄坂のコンビニで買い物してたら、視線の先にいたんだよ。マジびっくりしたわ」
嫌な予感が的中したことに、真南人の胸は痛いほど締め上げられる。
「そ、そうなんだ……でも、それは個人の自由だろう?」
真南人は動揺を隠しながらそれだけを言うと、自分が今どんな顔をしているのかを知りたくて、そっと鏡を見つめた。そこには僅かに青ざめた顔の自分がいる。
「自由? はっ、良くそんな呑気なこと言えるな。俺だったから速攻講師変えてもらうけどな。つーか柏木もそうした方が絶対にいいって」
横山は自信満々にそう言うと、慣れ慣れしく真南人の肩に手を置いた。
「触るな」
「え?」
真南人は耳を欹てないと聞こえないぐらいの声でそう言った。
「ううん。何でもない……あ、行かないと……」
真南人は、俯いたまま素早く手を洗いハンカチで拭くと、自分の席に戻った。
夏川は、真南人が戻ってもすぐには気づかないくらいの集中力で参考書を読んでいた。その真剣な顔に、真南人は横山の言葉を思い出し、頭を大きく振った。
講師を変えるなど嫌だ。自分は同姓愛に偏見などない。自分の講師がたまたま同性愛者だというだけのことで、そこには何の問題もない。
真南人はひとりそう納得すると、夏川の隣に腰かけた。
「あ、遅かったね。体調悪いの?」
夏川はそう言うと、心配そうに真南人を見つめた。
「いいえ。大丈夫です……あの、夏川さん」
真南人は夏川にそう言うと、机の上で、意を決するよう自分の両手を強く握った。
「夏川さんは……もしかして同性愛者ですか? 僕、見てしまったんです。夏川さんが男性とキスをしているところを」
真南人は勇気を出してそう問いかけた。これをきっかけに、もっと夏川のことを知ることができるかもしれない。そう思ったら、真南人は自分の気持ちを抑えることができなかった。
「ま、真南人君……それは」
透き通った瞳をこれでもかと見開く夏川を、真南人はまっすぐ見つめた。明らかに動揺している夏川の姿を見て、真南人は確信する。この嘘の付けない人物の魅力に、真南人は更に強く引き寄せられてしまうことを。
「はあ……真南人君には、困ったな……」
「え?」
夏川は項垂れたように下を向くと、溜息交じりにそう言った。
「そんな澄んだ瞳で、こんな大胆な質問されたの初めてだよ……びっくりした。でも、見られたのが真南人君で良かったな……」
夏川はゆっくりと顔を持ち上げるとそう言った。その顔は、一瞬でやつれてしまったような儚さを伴わせている。真南人はそんな夏川の顔を見て、自分の行動に激しく後悔した。
「ご、ごめんなさい。僕バカなことを言いましたよね。今すぐ僕の言ったこと忘れてください!」
真南人は自分がひどく恥ずかしくて、握っていた両手に思わず顔を埋めた。
「真南人君……今日の講習が終わったら、俺に付き合ってくれるかな?」
「はい?」
夏川の意外な言葉に、真南人は驚いて顔を上げた。
「真南人君と行きたい場所があるんだ。いいかな? いいよね?」
「行きたい場所って、どこですか?」
「それは行ってからのお楽しみ。そこはね、俺のお気に入りの場所なんだ。ずっと真南人君
と行きたかったんだよ」
夏川は綺麗な笑顔を作ると、気を取り直したように、持っていたシャープペンシルを器用に親指の周りで二回転させた。
「きっと真南人君も気に入ると思うよ」
自信あり気な夏川の顔に、真南人の心はゆらゆらと陽炎のように不安定に揺れた。
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