第1章

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          7  あの夜の夏川とのキスが、いつまでも真南人の唇に生々しく残っている。それは不思議と拭いたくなるような不快感ではなかった。ただ、毎日の生活の中で、ふいにあの時のキスの感触が何度も蘇みがっては、その度ごとの痛いほどの疼きに、戸惑いと幸福感を同時に覚えてしまうというジレンマに、真南人は確実に陥っていた。  どうして自分は、あんなキスを夏川としたのだろう。  あの日以来、そんな自問自答を頭の中で何度も繰り返していると、また自分がノイローゼの一歩手前で立ち往生していることに気づき、慌てて頭を抱える。  考え過ぎるのはやめよう。今は勉強に集中しよう。  そう自分に言い聞かせようとすればするほど、自分の意思に反し、頭の中を夏川の美しい顔が占領していく。真南人は、夕立が来そうなせいで、だんだんと薄暗くなっていく塾の教室の片隅で、ひとり悶々と、自分と夏川の関係について考えることに、ひどく疲れていた。  夏川は塾を休んでいた。というより、あのキスを交わして以来、真南人は一度も夏川と会っていない。大学の都合で休んでいると聞いたが、本当はもう二度と真南人の前に姿を現さないつもりなのかと不安になってしまうほど、突然の休みに不自然さが否めなかった。  夏期講習は来週で終わってしまう。  それを考えると、このまま夏川との繋がりがなくなってしまうのではないかという強い焦りを覚える。でも、判然としない気持ちのままでは、夏川に思いを伝えようにも伝えられない。ましてや、自分にそんな思い切ったことができる自信などない。  真南人はこんな自分がどうしようもなく嫌でたまらない。今まで、友人も恋人もいなかった自分の心の貧しさに全く気づかなかった愚かさに。それに慣れ、それでいいとさえ思っていた自分の幼稚さに。そんな気づきが、今、自分の背中に重くのしかかってくる。  今日は塾が主催する模擬試験の日で、試験が終わったと同時に、真南人は、重い心とともに頭を机に突っ伏した。  どうしよう。電話をしてみようか。でも、無視されたら……。  自分から行動を起こす勇気が足りないのは、こんなに誰かを恋しいと思う感情のせいで、今までの自分を見失うことが怖いからだ。自分の中で芽生えたこの感情が、こんな自分を変えるきっかけになると分かっていても、心にブレーキがかかるのは、もちろん夏川が男で、ゲイだからだ……。じゃあ、自分はどうなんだ……。 「柏木? テストどうだった?」  急に頭上で声がして、真南人は驚いて頭を上げた。視線の先には、にやついた顔の横山が立っている。いつもは、必ず何人かの友人たちとつるんでいる横山が、今は珍しく一人でいる。 「え?……ああ、あんまり、かな」   真南人は軽く伸びをしながら、正直にそう言った。 「へー、珍しい。常に学年上位の柏木がさ」 「……まあ、そんな時もあるよ」  真南人は机の脇に掛けたリュックを掴むと、左肩に引っ掛けた。 「そろそろ帰るよ。夕立来そうだし」 「え? ああ、確かに……空真っ黒だ」    横山は軽く膝を折ると、教室の窓の外を覗き込む。 「あ、柏木の講師……夏川さんだっけ?」 「え?」  不意に夏川の名を呼ばれ、真南人はどきっと心臓鳴らしながら横山を見つめた。 「あの人、最近見ないけど、柏木は理由知ってる?」 「し、知らないけど、何故だろう? 僕も気になってるんだ。横山は何か知ってるの?」  真南人は、誰彼構わず縋りたいような気持で横山にそう言った。 「さあ、どうだろう……知らない、かな」  横山は含みを込めたような言い方で、真南人の様子を窺うようにそう言った。 「何だよ、その意味深な言い方……」  真南人は横山の言い方が気に入らなくて、軽く睨んだ。 「まあ、まあ怒るなよ……あのさ、この間、柏木とあの講師、渋谷駅に一緒いなかった? なんか恋人同士みたいだったぜ。もしかして柏木もホモなの?」  横山の言葉に、真南人は心が凍り付くのを感じた。そのデリカシーのない単純な思考回路は、一体どういう脳味噌から生まれるのか。真南人は、今から横山の頭蓋骨を切り開き中身を覗いてみたいと思った。 「呆れたな……単純な脳味噌を持った横山が僕は羨ましい」  真南人は思い切り皮肉を込めて、横山にそう言い放った。 「否定しないんだ?」 「何が?」 「ホモじゃないってことをさ」 「否定をするもなにも、そんなくだらない質問に答えるほど僕は横山に心開いてないよ」  少しだけ傷ついたような顔をした横山は、何かを取り繕うように不自然に腕を組み直した。 「ふーん。柏木ってさらっときついこと言うよな……でも、まあいいか、今更手遅れだし」 「……手遅れって何?」  横山は真南人の質問には答えず、意味深な笑顔だけを向けると教室を出て行った。  その時、薄暗い空から案の定大粒の雨が落ちだした。アスファルトの上に大きな黒い水玉模様ができ始めたかと思うと、あっという間に同色になり、その後はバケツの水をひっくり返したような雨がアスファルトを激しく打ち付ける。  真南人はそれを見つめながら、夏川のことを思った。横山の言葉が心に引っかかるが、それよりも夏川のことが気がかりだった。  会いたい。  そんな純粋でまっすぐな気持ちを自分が持っていたことに、真南人は驚いた。止めようとあがいても、夏川への募る思いがこの激しく打ち付ける夕立のように止めどなく溢れてくる。 真南人は自分を抱きしめるように両腕を交差させると、深いため息を零した。
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