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次の週も夏川は塾に姿を現さなかった。夏季講習は今週で終わるが、講師が休みでは講習が成り立たない。塾側は、代わりの講師を真南人に宛がったが、夏川と比べると教え方が下手で、ろくな世間話のひとつもできない、いかにも勉強だけをしてきた世間知らずのお坊ちゃまのところが自分に良く似ていて、真南人はたまらなく嫌な気分になる。
何度もメールや電話をしてみようと試みたが、寸でのところで思い止まってしまう。ただ普通に『どうしたのか? 何故塾に来ないのか?』と尋ねればいいだけのことが真南人にはできなかった。夏川に対して芽生えた特別な感情が、真南人をがんじがらめにする。
自分という人間は一体何者なのか?
今までの自分が根底から覆されるような不安感に、真南人はまだ正面から向き合う勇気がなかった。
講習を終えて、家へ帰ろうと渋谷駅に向かう途中、リュックの中で真南人のスマホが鳴った。普段から鳴ることの少ないスマホを、真南人はリュックに手を突っ込み探す。着信のないどうでもいい時にはすぐに見つかるのに、こんな風に急いで電話に出なければならない時に限って、なかなか見つからないものだと、真南人は少し苛つきながらリュックの中を漁ると、指に固い感触が当たり、真南人はそれを掴むとリュックから急いで引き上げた。慌ててスマホのフラットな画面を凝視すると、真南人はそこに表示されている名前を見て、呼吸が止まりそうになった。
「もしもし! 夏川さん?」
真南人は素早く画面をスライドさせると、間髪置かずそう叫んだ。
「……真南人君。久しぶり。なんかごめんね。今頃連絡して」
「い、いえ……いや、ほ、本当ですよ。僕は大学に行くことだけを考えてればいいって、夏川さん最初にそう言ったじゃないですか。これじゃあ、職務遂行義務の放棄です。夏川さんひどいです」
「はは。本当だよね。結局こんな形になっちゃって。俺も辛いよ」
夏川の声ははっきりと分かるほど元気がなかった。声にいつもの抑揚がなく、何かを心の奥に秘めているようなもどかしさを感じる。
「どうして塾に来ないんですか? 何があったんですか?」
「……真南人君。俺ね。塾のアルバイト辞めたんだ。だからもう、君と会うことはないと思う」
「え? どうして? 自分が同性愛者だということを気にしているんですか? だったら、そんなこと僕は全然平気です!」
「……そうはいかないんだよ。君の将来のためにも、俺はもう真南人君とは二度と会わないって決めたんだ」
「は? 何ですかそれ。僕の将来と夏川さんにどんな関係があるんですか?」
「分かってよ。俺だってすごく辛いんだ」
「どうしてですか?」
「え?……そ、それは、君は俺の弟みたいで、相性もいいし、一緒にいてすごく楽しかったから……」
「だったら何故二度と会わないなんて言うんですか?」
「……調子に乗りすぎたんだよ。俺は。……あのキスだって、俺は君にあんなことしちゃいけなかったんだ」
「あ、あんなのは、ただの……」
真南人はその先の言葉がうまく見つからず、言葉に詰まった。
「……ねえ、真南人君。もう俺とのことは何もかも忘れてほしい。俺も忘れるから」
「わ、忘れろって、そんなの無理です!」
「あのね、最後に言わせて。君に会わなかった間に俺は早速行動に移したんだよ。援交のこととか、父親とのこととか、そういうこと全部。分かるでしょ?……だから真南人君もちゃんと医者になって、自分のやるべき道を進んでほしい。お願い。約束だよ……じゃあ、そろそろ」
「な、夏川さん! 待っ」
「短い間だったけど、君に会えてすごく幸せだった。さよなら。真南人君」
何の合図も無しにスマホは唐突に切られた。真南人の気持ちを聞かず、一方的にスマホを切る夏川の行動に、真南人は悲しみよりも湧き出す疑問で心が張り裂けそうだった。
どうして? どうして? どうして?
真南人はしばらくスマホを凝視し、ふと我に返り慌てて夏川に電話をかけた。でも、何度かけても結局、真南人の耳に流れてくるのは、綺麗な標準語を話す女性のアナウンスだけだった。
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