第1章

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第1章

          1  夏休みの塾嫌いだ。塾生達のテンションはいつもより高く、皆一様に一夏の何かを期待しているような落ち着きのない雰囲気が漂っているからだ。そんな風に浮き足立っても、期待通りの出来事などほとんど起こらないというのに。  高校三年生の柏木真南人(かしわぎまなと)は、机にひとり座りながら、溜息と共に教室の窓の外に目をやった。  道路からゆらゆらと陽炎が立っている。真南人はそれを憎々しく見つめながら、茹だるような夏の暑さに人知れず辟易した。  真南人が通う塾は個別指導の方式を取っていて、今日からスタートする夏季講習の期間だけ、大学生の新しい講師が付くことになっていた。教室は、一部屋に五人ずつ二列に机が並んでいて、それぞれが板で仕切られた半個室のようなつくりになっている。  真南人は夏の間だけの自分の「講師」を、特に何の期待も抱かず、凪いでいる海のような気持ちで静かに待っていた。 「柏木君? 柏木真南人君?」  いきなり肩に手を添えられ、真南人はその馴れ馴れしさに、少しだけ嫌悪感を滲ませた顔で声の主を見上げた。 「はい。そうですけど」  そう言ったまま真南人は固まった。 「そう。良かった。今回真南人君の担当になった、T大学医学部四年の夏川瑠生(なつかわるい)です」  新しい講師はにこやかに真南人に挨拶をする。真南人は、口を軽く開けたまま目の前の男を凝視した。  身長も肩幅も真南人より大きく男らしい。でも、透き通るような白い肌が中性的な雰囲気を醸し出していて、そのギャップが強い個性を放っている。   前髪は長く、その栗色の柔らかそうな髪は襟足まで伸びていて、毛先が軽くカールされている。艶のある切れ長の大きな瞳と、美しい輪郭を描く筋の通った鼻と、本物の花びらかと見まがうほどの桜色の唇が、小さな顔に、数ミリの狂いもなく美しく収まっている。  真南人は、目の前の男の比類なき魅力に、生まれて初めて言葉を失うほどの衝撃を受けた。 「真南人君?……あれ? 真南人君でいいんでしょ?」  そんな真南人の様子に不安を感じたのか、夏川はもう一度真南人の肩に手を置き、優しく揺さぶった。 「え? あ、はい。柏木真南人です。よ、よろしくお願いします」  真南人は自分の上ずった声に苛立ちを覚えた。 「あの……緊張してるの? だったら俺も同じだから。初めてなんだ。一対一の個別指導。俺みたいな初心者でごめんね」  夏川はそう言うと、丁寧に頭を下げ、白く綺麗な手を真南人の前に差し出した。真南人は夏川の手を見つめ、まるでガラス細工でも扱うような繊細さで、そっと軽く握手を交わした。 「いいえ。僕も一対一は初めてなんです。もし何か気に障るようなことをしてしまったらすみせん……なるべく気を付けますが」 「いや。そんな気遣いしなくていいよ。真南人君は大学に合格することだけ考えてよ。俺はそのために給料を貰ってるんだから」  夏川は割り切ったようにそう言うと、おもむろに大きな肩掛け鞄に手を突っ込み、中で手を動かしながら何かを探し始めた。 「あった。えーと。真南人君。俺と携帯番号交換してくれるかな?」 「え? それはこの塾の決まりなんですか?」 「ううん。違うよ。ただ、何かあった時のためにその方がいいと思って」 「何か?」 「まあ、そんな堅苦しく考えないでね。いいかな? 何か問題でもある?」 「いえ。別に。大丈夫です」  真南人はそう言うと、自分も鞄の中からスマホを取りだして、二人で携帯番号を交換し合った。 「よし。これでOK。じゃあ、まずはお互いに自己紹介をしよう。俺はさっきも言ったけどT大学医学部四年、夏川瑠生です。趣味は料理。最近はパンケーキ作りにはまってる。知ってる? 都内でもね、たくさんのパンケーキ専門店が続々オープンしてるんだよ。俺のお気に入りの店に今度一緒に行ってみない?」 「はい?」  真南人は困惑した表情を露骨に見せた。夏川という人物は、見た目の神秘的な雰囲気とはほど遠い、空気の読めない天然さを孕んでいるようだった。  夏川は真南人の戸惑いなど気にもせず、自己紹介を続ける。 「俺は大学4年生になるのに、未だに将来何をやりたいか決まってないんだ。こんな適当な奴に教わるの嫌かと思うけど、人に物を教えるのは割と好きんだよ。だから塾のアルバイトをしてるんだけどね」  真南人は、夏川の少し困ったように眉根を寄せて話す顔に、思わず見惚れた。 「俺はこんなだけど、真南人君にはちゃんと夢があるんでしょ?」  不意に、まっすぐに瞳を見つめられ、真南人は慌てて視線を反らした。 「僕は、特にないです」 「でも医学部目指してるんでしょ?」 「はい。父の後を継ぐためです。父は個人病院の院長をしてるので」 「ああ。そういうことか」  その言い方には特に不快な響きは含まれてはいなかった。真南人のことを、親に決められたレールに乗せられている気の毒な人間だと同情する空気は感じられない。真南人は良く、他人からそんなニュアンスの空気を感じることがある。でも、注意深く疑がってみるが、夏川はただまっすぐに純粋に、好奇な視線を真南人に寄越すだけだ。 「プレッシャーが大きいよね? でも、君は偉いね。今時父親の後を素直に継ぐ子なんて珍しいよ」 「そうでしょうか?」 「そうだよ。きっと君みたいな人間が医者に向いてるんだろうな」 「どういう意味ですか?」 「真南人君には迷いがないように見える。とても素直だし、そんなところがシンプルで格好いいなあって思う」  初対面の人間に、いきなり「格好いい」などというストレートな言葉をぶつけられ、真南人は困惑しながら大きく目を見開いた。 『格好いい?』どこが。  自分は生まれた時から医者になる運命を背負わされてきただけだ。ずっとそう刷り込まされてきたから、そんな運命に逆らう疑問も気力も沸いてこないつまらない自分に、『格好いい』などという言葉は余りにも無相応だ。 「どうしたの? 俺、また変なこと言った? 良く人にそんな顔をされるんだよ。思ったままを口にしちゃうから、おかしな奴だと思われることが多いんだ」  真南人は夏川を困ったように見つめると、軽く首を横に振った。 「いいえ。ただ、僕は人よりちょっと体温が低いだけです」  真南人の言葉に何かを感じたのか、夏川は興味深げに真南人を見つめた。  少しの沈黙が流れた後、真南人と夏川は共に席を正し、塾からもらった夏季講習の計画が書かれた用紙に目を通しながら、簡単な打ち合わせを始めた。明日から本格的に始まる夏の間だけの集中講習に、真南人の胸は、何故か落ち着きなくざわめいた。                   
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