第一章 春――厳冬の名残

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 * * *   怒涛の見合い期間が終わり、あとは誰と縁談が決まるか待つのみとなった頃、ふみを食事に誘ってきたのは叔父だった。  叔父はふみを今でも子どものように可愛がってくれており、ふみにとっては姉の次に好ましい人物だった。仕事をすることを歓迎しなかった父を説得してくれたのも叔父で、それからは仕事の相談なんかに乗ってくれるよい相談相手となっている。  待ち合わせは最近できた人気の洋食屋で、流行りを好む叔父らしい。窓から覗く店内はシャンデリアが煌びやかに輝いていて、ダンスホールのようで落ち着かない。 「やあ、久しぶりだね」 「正巳(まさみ)おじさまこそ。お元気そうでよかったわ」  相変わらず洒落たスーツを着こなした叔父は、父の厳格さからは似ても似つかない柔らかい雰囲気で笑顔を作っている。 「君はずいぶん疲れているみたいだけど。まあ、いい。中に入ろうか」  先を歩く叔父だけが、ふみの疲れに気づいてくれる。それがふみの顔を曇らせた。  席について適当に料理を頼むと、 「それでどうしてそんな顔をしているんだい?」  と叔父が口を開いた。  結婚が破談になって。千代お姉さまが離縁されて。したくもないお見合いをして。仕事も失いました。どれもが答えのような気がしたが、同時にどれも違うような気がした。  言葉に詰まっていると、 「仕事がうまくいっていない?」  と、叔父は尋ねてくる。なんでも話していい、という雰囲気に甘えそうになってしまうが、今自分が何をどうしたいのか分からないままになってしまっているせいで、ふみは叔父に相談しようにも正しい言葉が見つからない。 「ううん。仕事はいつも通りよ。最近忙しかっただけ」  ふみは気を取り直して、いつも通りしっかりと口角を上げて笑って見せる。 「正巳おじさまこそ、急にどうされたの?」  先に届いたビールグラスをふみに少し傾け、ぐっと飲み込んでいる叔父は少し間を置いて、 「ふみ、議員秘書になる気はないかい?」  と言い出した。  一緒に届いた果汁水(かじゅすい)を吐き出さないように、ごくんとはしたない音を出して飲み込む。慌ててハンカチで口を押えた。  議員秘書と言えば、一握りの優秀な人々が就く職業だ。お国を動かしている方の側で、事務仕事をしたり、渉外に付いたりと様々な仕事をこなしていると聞く。ふみは詳しい仕事の内容までは分からなかったが、それが破格の誘いであることは十分に理解できた。  どくどくと鼓動が高鳴る。 「真面目・優秀・仕事熱心、ついで口が堅くて、約束を守る。そんな人を紹介してほしいと言われてね。いの一番に頭に浮かんだのが君だったと――」  上機嫌に語る叔父は、どうやらもう酒が回ってきているらしい。 「やります」  叔父の言葉が終わるか否かのところで、ふみは勢いよく立ち上がってそう答えていた。 「おじさま、私、議員秘書になります。おじさまに恥じぬように、精一杯やらせていただきます」  ふみは改めて居住まいを正し、叔父に一礼する。 「うん、ふみならそう言ってくれると思った。そんな気張った顔しなくていいから」  叔父は柔らかく笑って、さあ食べようね、とポークチョップを口に運んで、うんうんと頷き、美味しそうな顔をしている。 「あとで手紙を送るから、待っていなさい」  今日は就職祝いだね、と微笑む叔父ににっこりと微笑み返す。 黄色を弾ませるオムレツを頬張って、ふみは久しぶりに食べ物を美味しいと思うことができた。 そう思ってしまった。
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