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第一章 春――厳冬の名残
今考えると、なんでもよかったのかもしれない。
ふみはそう思って、目の前に座る少し前まで婚約者だった男の顔を見つめていた。
ふみを求めてくれた人がたまたま父の見繕った、よく知りもしない男だっただけで、それが気軽にウィンドウショッピングに誘ってくれるけれど、真の底ではただふみの財布を目当てにしている女でも、可愛い声で鳴いて近づいてきたように見えて、本当は餌が欲しいだけの野良犬でも、自分を求めてくれているのなら、なんでもよかったのだ。
「……おっしゃりたいことはそれだけですか?」
ふみは静かに姿勢を正し、微笑みを湛えてそう言った。
「聞こえていたか? 破談だ、と言ったんだ」
勇はふみの態度が気に入らなかったのか、同じことを繰り返し、睥睨している。
ふ、と少し息を吐いて、ふみはカフェー・ミモザの大きな窓に目をやる。そこには、勇と向き合ったふみの姿が映っていた。勇は三つ揃えの濃い鈍色をしたスーツを着ていて、誰から見ても美男だった。ふみはおろしたての紫のワンピース。白のタイが胸元に印象的にあしらわれていて、上品にまとまっていた。
三回目のデートだと誰かに伝えたら、きっと「婚約のお約束がある日なのね」と全員が違わず答えるくらいには二人とも整った雰囲気を作ることができている。それはふみの両親も同じで、今朝方見送られた時のそわそわとした期待に満ちた顔がぽつりとふみの心に浮かんだ。
「驚かないってことは、君もわかっていたんだろう? 俺が仕事をしているような女と結婚する気がないってことくらい」
悪びれるでもなく、勇は平然とそう言った。
少しでも狼狽えて、「どうしてなの?」「ごめんなさい、仕事は辞めるから」「あなたが好きよ」と、泣いて縋って見せたら彼は私と結婚してくれるのだろうか。
いや、きっとそんなことはない。呆れて「女はすぐ泣くから嫌いだ」と言うだろう。
「こういう時でさえ、泣かないんだな。可愛げのない女だよ、本当に」
ふみの目の前に置かれた珈琲は、まだ湯気を立てていた。
どうせなら、珈琲が消えきるまで悩んでくれたらよかったのに。
ふみは、テーブルの下でハンカチをぎゅっと握りしめる。それに気づくことなく、勇は続けた。
「見合いを持ってきた人間の顔を立ってるためにも、今日までは付き合ったけれど。まあ、君は美人であることに違いはないからね」
ふみは勇の肩越しに、窓の外に目をやった。
窓際の席は、こういう時に困らなくていい。相手の顔からほんの少し視線を外すだけで、彼の世界から自分を消すことができる。もっとひっそりと消えることができたなら、よかったのだけれど。
帝都は二月の終わりに差し掛かり、厳しい寒さが緩み始めていたころだった。通りを交差するモダンガールとモダンボーイは、デパートなるハイカラな場所から発信された流行を身にまとっている。
男の外套はどれも黒かったが、女は洋装でも和装でも色とりどりで美しい。煉瓦造りの建物の前を通りすぎる彼女たちは、控えめだが華やかに笑っており、冬に咲く花たちのように見えた。
ふみは、男の平凡な口説き文句のようなことを思いながら、遠くで話す勇の声だけを耳でとらえる。別に聞く必要は無かったが、耳は塞がなければ近くの言葉を全て拾ってしまうのが煩わしい。
「いや、勘違いしてほしくはないのだけれど、美人であることと、可愛げがあるということは全く別のことだ。隣に連れて歩く分にはよかったよ。でも、君の価値なんてそれくらいのものさ」
店の入り口が見える。
誰かと待ち合わせているのか、綺麗に着飾った若い女が立っていた。きっと素敵な男と待ち合わせているのだろう。そわそわと華やかな撫子色のワンピースの裾を撫でつけていた。若い彼女には未来だけが広がっているように見える。
勇を待ついつかの自分もそうだったのだろうか。
ふみは曖昧な記憶に思いを馳せそうになり、その先にあるはずの記憶をすべて消した。
「……おっしゃりたいことはそれだけですか?」
ふみはもう一度姿勢を正し、視線を勇に戻して微笑む。
「強がっても痛いだけだぞ、売れ残りが」
どん、と鈍い音が響いた。拍子、ふみは驚いて目をつむる。
しん、と店内が静まるのが分かった。周囲の耳目がこちらに向いていることも。
よほど自分が動揺しないことが腹立たしいのだろう、とふみは思った。勇は今どんな怒り顔で座っているのだろうか。自分など置いてさっさと帰ればいいのに。
そこまで考えて、ゆっくりと目を開く。
すると、白いクロスの上には知らない手がひとひら大きく陣取っていた。一際大きくてたくましく、無骨な手。
「…………お引き取り願えますか」
手の主はテーブルが割れてしまうのではないかと思うくらいの低い声でそう言った。
「だ、誰だよ、お前」
先ほどまで威勢の良かった勇は狼狽えた様子で男を見上げていた。次ぐ言葉はなく、手の主が嘆息した、はあ、という音と同時に、大きな手にさらに力が入ったように見える。
ふみはなんだか怖くて、手の主の顔を見ることができない代わりに、その手と勇の顔を忙しなく追いかけることしかできない。
「出口は向こうだ。忘れたのか?」
いつも何も考えていないように笑っていた勇の歪んだ顔は新鮮だった。
少し間があったが、手の主の圧に負けたのか、勇は小さく舌打ちを残し、「ごきげんよう」と引きつった笑顔を残して去って行った。
遠くでからんからん、と鈴の鳴った店の入り口を大きな窓から見やると、撫子色の若い女と落ち合い、笑っている勇が目に入った。女の方がふみを見て、微かに口角を上げたような気がした。
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