第一章 春――厳冬の名残

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 鈴の音が終わりの合図だったように、店内は徐々に活気づいていった。 「騒がせてしまって、申し訳ない」 「いいえ。とても静かでしたわ」  手の主はふ、と少し笑って隣の席に座った。  なんだか鋭く見える目はふみと交わることはなく、黒髪の男は自分の珈琲を一度に啜り終えると、ゆっくりと立ち上がった。  思っていたよりも体格がよく、上背のある男にふみは多少の恐怖を覚えながらも「お待ちください」と、思わず声をかける。 「どこにも行かない」  男はそう言うと、先ほどまで勇が座っていた場所へと腰を下ろした。  「どこにもいかない」という言葉にふみの心がちく、と痛む。捨て置かれた猫のように、縋ってしまったと思われただろうか。勇には言えなかった「待って」という一言。勇に言ってほしかった「どこにも行かない」という言葉。何もかもが間違った場所で使われてしまっている。  あべこべな世界に居る自分に、ふみは急に可笑しくなってしまった。 「……可笑しいことを言っただろうか」  男は真面目な目でふみを見つめている。  三つ揃えのスーツはその体格の良さのせいで、少し張っているように見える。しかし、不思議と洋装は男に馴染んでいて、洒脱な風貌にさせていた。 「私、笑ったかしら」  慌ててハンカチで口を抑える。近頃、自然に笑うことなんて滅多になかったので、ふみ自身も驚いていた。  男は険しい顔は崩さないまま、「珈琲を二つ」と女給に注文を告げた。 「……お気持ちは嬉しいですが、受け取れません。お引止めして申し訳ございませんでした」  ふみが小さく頭を下げ、慌てて立ち上がろうとすると、 「今出れば近く鉢合わせるだろう。追いかけたいのなら止めない」  と、抑揚の無い低い声でそう言った。  すぐに勇と街中で会ったところで、自分が動揺するようには思えなかったが、勇を追いかけたと思われることだけは嫌だったふみは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。 「お待たせしました」  ふみの前に新しい珈琲が置かれる。 「なぜ言い返さなかった」  男は一口珈琲を啜って、そうふみに問う。 「……あなたこそ、なぜ割って入って来られたのですか?」  言い返しても何も変わらないから、などと答えられない。質問に質問で返すなど、普段はしないというのに。 ふみは自分が思ったよりも、落ち着いてはいないらしいということを悟った。  珈琲の中に映る自分は、今まで見たことのない虚ろな目をしている。 「珈琲が不味くなる。それだけだ」 「……もう少しで言い返すところでしたのに」  同情はいらない。  きっと悪い人ではないのだろう。そう頭ではわかっていても、ふみにはその優しさを素直に受け取る気はなかった。  どこかでこうなることはわかっていたような気がする。結婚したとしても。わかっていて勇との関係を取り繕うことをしなかったのは、ふみだ。  だから、悪いのは自分だ。責めるなら自分だ。勇は被害者なのだ。  勇が言っていたことは、間違いではない。ふみはそう思う。  二三にもなって結婚できないことも自分のせいだ。  他人を責めることは簡単だが、他人のせいにしても何も変わらない。  自分がこの世で一等かわいそうな存在なのだと訴えることができたら、どれだけいいだろう。しかし、そんなことはふみにはできない。  自分が悪いのだから。 「君は結婚したいのか?」  突然の男の問いかけは、優しさの欠片もない無粋な質問だった。しかし、今のふみには正しい話題のように思えた。 「両親を悲しませたくは無いですから」 「君は、と聞いている」  男の目は、ふみを見ていた。射ぬく、という言葉の方が合っているかもしれない。そう思うほどに、男はふみの心の中を見ようとしていた。 「私は……。いえ、選択肢は無いのです。世間が結婚を迫りますし、世間が結婚をしないことを許しません」 「そうか」  男は短く相槌を打って、また珈琲を啜った。 「では、俺と結婚するのはどうだろうか」  男は表情を一つも変えずにそう言った。 「…………ええと………………今、なんと?」  意味がわからなかった。ただ、理解の範疇を超えた言葉が飛んできたことに、直感で言葉を返す。 落ち着き払っていたふみも、さすがに不測の事態に動揺を隠すことはできない。  男はやはり表情を変えることなく、 「俺と結婚してほしい、と」  と、続けた。 「……はい、と答えると思いますか?」 「思う」  男は迷いなく、真っすぐとふみの目を見つめてそう言った。その目はとても冗談を言っているようには見えない。だからこそ、ふみは怖かった。 「ごめんなさい……。……あの、私は今日、今ここで結婚が破談になったことはご存知ですよね?」 「ああ」 「であれば、貴方は私をお金と権力で買おうとしている華族や皇族の方か、もしくは傷心女に漬けこむ詐欺師であるかのどちらか?」  ふみは不服さがなるべく顔に出ないように、両手で頬を押さえて男に問い返した。 最悪、前者ならまだ許せる。 ――許せるって何? 許せるの? 許す許さないの話なの?  助けて。と、初めてふみは思った。  しかし同時に、誰かが助けてくれるわけではない、自分で何とかしなければと心を奮い立たせてもいた。  不慮の事態には落ち着いて行動を。冷静さを欠いては、事を仕損じる。仕事に臨む態度をそのまま引き出し、呪文のように心で唱え、ふみは一つ深呼吸した。 「申し訳ございません。私、そろそろ帰らないと」  悪い人ではないのだろう、と見立てた自分が馬鹿だったと後悔する。自分の人を見る目が信じられないことは、今しがた勇が証明してくれたというのに。  にこりと微笑み、急いで席を立とうとすると、男の手に手首が捕まってしまった。  ぎょっとした顔でふみが男を見つめ返す。その顔を見て男はバツが悪そうに、 「怖がらせてしまった。君を取って食うつもりはない。……話だけでも聞いてくれないだろうか」  と、深々と頭を下げる。男は体格の良さも上背の高さも変わらないが、先ほどよりもずいぶん小さく見えた。 「俺は浅沼一誠だ。名乗る習慣がなくて、申し訳ない」 たどたどしくする一誠に、ふみはなんだか拍子抜けしてしまった。 「……華族でも皇族ではない。詐欺師か、と問われると、今の状況ではなんとも言えない。だが、君に悪い話ではないはずだ」 「お手を……放していただいてもよろしいでしょうか。大切な商売道具なの」  ああ、と慌ててふみの手を放す一誠が次の質問をする前に、 「タイピストをしております」  と、続けてふみは再び席に座ることにする。  自分のことを一切知らない人間となら、もう少し時を共にしてもいいかもしれない。ふみはそう考えなおした。 家に帰ってしまえば両親になんと言われるかわからない。それよりは、この一誠という男の話というものを聞くことも、存外悪くはないだろう。 ――どうせこの方とは、今日が最初で最後なのだから。  知らぬ男と簡単に相席することはずいぶんと不埒なようにも思ったが、今のふみにとってそんなことはどうでもよかった。  ただ、帰りたくなかった。 どこにも、帰りたくはなかった。
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