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「改めて」
一誠は背広をすっと引き、居住まいを正す。正面から見つめられると、鋭いように見えた目元は凛々しく感じられた。
黒髪の短髪は綺麗に切り揃えられており、目元の印象と相まって涼やかさを感じさせる。引き締められた口元は緊張をはらんでいるようにも見えた。
「俺は浅沼一誠。浅草近くのデパートに入っている呉服屋に勤めている」
一誠が改めてその口を開いた。
低い声が柔らかく響く。心地よい声は、ふみを少し落ち着かせてくれた。そして、その声で淡々と自分のことについて語っていった。
結婚生活に夢も希望も持っていない。できればしたくないとさえ思っている。しかし、呉服屋の付き合いには社交も含まれている。高額な取引をする客が主催する夜会に呼ばれ、夜ごと相手を見つけることにほとほと疲れてしまった。
そんなところが彼の事情らしい。
「だから、俺と結婚してほしい。結婚という名の契約を」
「契約……ですか?」
「まるでお仕事みたい」
呆れたように返すふみに一誠は、
「そうだな。仕事だと思ってくれるなら、こちらはやりやすくて助かる」
という。
「君も仕事をしているのだろう? 結婚を機に辞めたくないとも思っている」
「結婚しても仕事を続けることを条件に結婚しよう、ということでしょうか。お飾りの妻になれと。仕事だと思って結婚生活をこなせと」
口走る言葉の一つひとつが冷たい響きをしていた。すべてを言い切るころには、ふみの心がきん、と冷え切ってしまうほどに。
「理解が早くて助かる。どうだろう。悪い話ではないと思うが」
「そんなの幸せだなんて思えません。馬鹿にするのもいい加減していただけますか」
静かに怒りを露わにするふみに、一誠は落ち着いた様子で告げる。
「では、君にとっての幸せとはなんだ?」
その言葉は、ふみの心の奥の奥まで突き刺さる。知りたくなかった痛みだった。
仕事を取るか、結婚を取るか。その選択しかないはずなのに、どちらもを望んだ罰だ。
ふみはそう思った。
――どちらもなんて無理なのはわかってる。わかってるけど。でも。
――それを望むことも許されないの?
ふみは勢いのまま立ち上がり、一誠に大きく一礼して足早にカフェーを出た。一誠がどんな顔をしていたか、ふみにはわからない。
ただ、彼によって目をつむって避けてきたことに気づかされ、黒々とした感情が渦巻いたことは確かで。
――私、何に期待していたんだろう。
一誠に二度は捕まらなかった手首が、不思議と冷たくなったこともまた確かだった。
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