第一章 春――厳冬の名残

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「改めて」  一誠は背広をすっと引き、居住まいを正す。正面から見つめられると、鋭いように見えた目元は凛々しく感じられた。  黒髪の短髪は綺麗に切り揃えられており、目元の印象と相まって涼やかさを感じさせる。引き締められた口元は緊張をはらんでいるようにも見えた。 「俺は浅沼一誠(あさぬまいっせい)。浅草近くのデパートに入っている呉服屋に勤めている」  一誠が改めてその口を開いた。  低い声が柔らかく響く。心地よい声は、ふみを少し落ち着かせてくれた。そして、その声で淡々と自分のことについて語っていった。  結婚生活に夢も希望も持っていない。できればしたくないとさえ思っている。しかし、呉服屋の付き合いには社交も含まれている。高額な取引をする客が主催する夜会に呼ばれ、夜ごと相手を見つけることにほとほと疲れてしまった。  そんなところが彼の事情らしい。 「だから、俺と結婚してほしい。結婚という名の契約を」 「契約……ですか?」 「まるでお仕事みたい」  呆れたように返すふみに一誠は、 「そうだな。仕事だと思ってくれるなら、こちらはやりやすくて助かる」  という。 「君も仕事をしているのだろう? 結婚を機に辞めたくないとも思っている」 「結婚しても仕事を続けることを条件に結婚しよう、ということでしょうか。お飾りの妻になれと。仕事だと思って結婚生活をこなせと」  口走る言葉の一つひとつが冷たい響きをしていた。すべてを言い切るころには、ふみの心がきん、と冷え切ってしまうほどに。 「理解が早くて助かる。どうだろう。悪い話ではないと思うが」 「そんなの幸せだなんて思えません。馬鹿にするのもいい加減していただけますか」  静かに怒りを露わにするふみに、一誠は落ち着いた様子で告げる。 「では、君にとっての幸せとはなんだ?」  その言葉は、ふみの心の奥の奥まで突き刺さる。知りたくなかった痛みだった。  仕事を取るか、結婚を取るか。その選択しかないはずなのに、どちらもを望んだ罰だ。  ふみはそう思った。 ――どちらもなんて無理なのはわかってる。わかってるけど。でも。 ――それを望むことも許されないの?  ふみは勢いのまま立ち上がり、一誠に大きく一礼して足早にカフェーを出た。一誠がどんな顔をしていたか、ふみにはわからない。  ただ、彼によって目をつむって避けてきたことに気づかされ、黒々とした感情が渦巻いたことは確かで。 ――私、何に期待していたんだろう。  一誠に二度は捕まらなかった手首が、不思議と冷たくなったこともまた確かだった。
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