第一章 春――厳冬の名残

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 * * * 「それで、婚約の話はどうだったんだ?」  父にぎこちなく尋ねられたところで、ふみはようやく自分が食卓についていることを思い出した。 「ぼんやりしちゃって、もう」  と、笑う母はどこか浮足立って見える。  落ち着かない、というように二人は箸を置いて、背筋を伸ばしたり、咳払いをしたりしながら、ふみに目線を合わせて離さない。  ついに。今度こそ。やっと。ようやく。そんな二人の目線がふみを突き刺す。  溢れ出る両親の期待を裏切ることは、もうふみにとって耐えられそうにない。 「お父さま、お母さま、私……」  手持ち無沙汰で何度も綺麗に揃えられた箸を、もう一度揃えなおしていた時だった。 「ただいま帰りました!」  はつらつとした声が月島(つきしま)家に響いた。 「やっぱり実家は落ち着くわねえ」  夜もすっかり更けていた頃にも関わらず、珍客はずかずかと食卓を囲む家族の輪へと入り込む。 「お姉さま!」  重そうな風呂敷やら鞄やらを持てるだけ抱えてやってきたのは、姉の千代(ちよ)だった。 「千代、あなた一体どうしたんですか、こんな時間に」  母は先ほどまでの笑顔をどこかに忘れてきたように、鬼の形相を作っている。  言い出しにくいことが、さらに言い出しにくくなり、ふみは一気に現実へと引き戻される。  どうしたものか――と思案顔のふみに千代は「ふみ、眉間に皺が寄っているわ。可愛い顔が台無しよ」と、人差し指で眉間を、ぐぐ、と押してくる。  そうだ、姉はこういう人だった。ふみはそう思わざるを得なかった。 天真爛漫を絵に描いたような可愛らしい千代は、いつだって人の中心にいる。ふみにとって千代は憧れの存在だった。もちろん、こんな風に鬱陶しい時もあるのだが。 「お姉さまのせいです」  少し頬を膨らませ、拗ねて見せると千代は「ごめんね」と、珍しく眉を下げて悲しそうに笑って見せた。 「お姉さま……?」  ふみが普段と違う千代に戸惑っていると、 「こんな時間に帰省だなんて感心しないな」  という父の落ち着いた声が月島家に響いた。一気に緊張の糸が張りつめる。 「きちんと事前に連絡をよこしなさい」 「そうよ、お姉さま。私、迎えに行ったのに」  千代は帝都から少し離れた場所に住んでいる。いつもなら、近くの路面電車の停車場まで迎えに行くのがふみの役目だった。  ふいっと視線を逸らす千代は、「連絡しなくてごめんなさい」と不貞腐れながらも反省はしているようだった。  そして三人の視線に観念したのか、千代は三つ指をついて両親に向き合った。 「お父さま、お母さま、ふみ。わたくし、小谷(こたに)様と離縁して参りました。本日より月島に戻ります。申し訳ございません」  そこまでを一息に言い切ると、千代は深々と頭を下げた。 「離……そんな話は聞いてないぞ!」  がこん、という音と同時に食器ががたがたと震える音が響く。いつもは温厚な父が、拳を握っていた。そんな父の様子に怯えながら、母は震えた声で続ける。 「千代……訳を話してちょうだいな……」 「……小谷様からそう言われたのです。きっと新しくいい人ができたのでしょう」  千代は頭を上げず、無感情にそう答えた。  父は嫁に出すならせめて金銭に苦労しないようにと、家柄の良い家との縁談を推し進めていた。ふみの勇との縁談と同じく、千代もまたそうやって十九の年に嫁いでいったのだった。 「そんな……お姉さまもなの?」  鋭い父の視線がふみをとらえる。はっと口を押えた時にはもう遅かった。 「ふみ、どういうことだ?」  がこん、という音が聞こえない代わりに、かたかたと障子が揺れる音が不気味に響き、背筋が凍る。 「あ、の」  言葉が喉に詰まる。  ぐっと唇を噛み、意を決したふみは千代の隣に並び、頭を下げた。 「縁談、破談となりました。申し訳ございません」  母が小さな悲鳴を上げると同時に、父の深いため息が耳に届いた。  沈黙の間、冷えたイ草の香りがふみの鼻につんと突き刺さる。何かを考える余裕もなく、父の言葉をただ待つしかなった。 「頭を上げなさい、二人とも」  千代が頭を上げたのを確認してから、ふみもおずおずと頭を上げる。  目頭を押さえ、眉間に皺を寄せる父は幾分か怒りの色が薄くなったように見えた。緊張が緩んだのか、母の目からは涙が流れている。 「二人とも辛かったわね」  滲んだ声を出す母は千代とふみの頭にふわりと手を置いた。しかし、いつもならあたたかく感じる母の手は冷たいままだ。  ふみは両親が悲しむ姿が最も辛かった。辛くてやるせなかった。自分が今の両親を笑顔にする手段は、自分が結婚することしかない。その事実もまた、ふみを辛くさせた。 叱られることは怖いが、それよりも心が冷えた。 「千代、ふみ。私に見る目が無くて悲しい想いをさせたな」 「お父さま、そんなことおっしゃらないで。それこそお父さまのせいではないのよ」  千代はそう言って父を気遣う。 「いいや、私が悪かったんだ。せめてふみには幸せな結婚をしてもらわないとな」 「そうですね」  母は涙を拭いながら、父の隣へと座り直した。 「さあ、お夕飯食べてしまいましょう」  ぱちん、と母が叩いた手が月島家の時間を進めた。強引に時を進められたように感じたのは、ふみが両親に置いてきぼりにされている気持ちになっていたからかもしれない。 「あたしは部屋に荷物を運ぶわ。ふみ、またしばらく一緒の部屋ね」  千代は持ってきた荷物を手早く運びながらふみにそう言って微笑んだ。ふみはそれに小さく頷くことしかできなかった。  目の前の両親は「家柄が良くて、人柄のいい人間を探さないとな」などと、次の見合いについて算段を立てている。 ――幸せって、何?  結婚こそが幸せだと思っている両親は、千代を見て何も思わないのだろうか。結婚してもその先の幸せが保証されているわけではない。  ふみだって、結婚だけが幸せだとは思っていなかったものの、そこに憧れがあった。  今日までは。  冷えた白米を義務的に口に運んでみる。ふみはそうしないといけないような気がした。噛んでも噛んでも、味がすることはなくて。なぜか頭に浮かんだのは、一誠の顔だった。 ――では、君にとっての幸せとはなんだ?  わからない。わかるはずもない。  仕事に生きることも、結婚をして誰かのために尽くすことも、どちらもできていない中途半端な自分に幸せなんてわかるはずない。  もしも。  もしも、あの時「はい」と答えたら。  一誠との婚約を決めてしまっていたら。  こんなことにはならずに済んだのかもしれない。両親との距離を感じることも、結婚へ恐怖を抱くことも、幸せに迷うことだってなかったかもしれない。 ふみは少しだけ、そんなことを考える。  世間には恋愛結婚というものもあるという。家柄に縛られない自由な結婚。 しかし、ふみの周りには見合いで結婚した者しかいなかった。恋愛結婚なんて物語や雑誌の中だけの話。浪漫のある話ではあるが、現実は浪漫なんてものはないのだ。 そんな自由な結婚があれば。一誠の求婚に「はい」と答えるだけで結婚できるのならば、いっそ簡単なのに。 簡単で、簡単すぎて、虚しくて。 ――結婚って、何のためにするのかしら。  ふみは味のない夕飯を流し込み、その勢いで茶碗を洗った。母が代わろうとしてくれたが、断った。自分の仕事はきちんとこなしたかった。そうしないと自分の中の何かが崩れそうだった。
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