第一章 春――厳冬の名残

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「はあ」  ぱたん、と自室の襖を閉じて、やっと息が吸えたような心地がする。  ふみが大きなため息を吐くと、すっかり寝支度を整えた千代が荷物を広げながら「お疲れ様」とねぎらってくれた。 「ごめんね、ふう。あたしのことに巻き込んでしまって」  数年ぶりに聞いた「ふう」という自分の愛称が、千代の存在をより懐かしくさせた。何も心配せず、ただ純粋に少女だったあの頃の姉妹はもういない。  広げた荷物を窓際に寄せ、来客用の布団とふみの布団を並べて敷く千代。いつも大きく見えていた姉の背中が少し小さく見えるのは気のせいではない。  その背中が幸せの不安定さを物語っているようで、ふみは辛かった。 「お帰りなさい、お姉さま」  ふみは自分を抱きしめる代わりに、千代の背中をそっと撫でた。 「うん、ただいま」  千代は小さくそういうと、静かに肩を震わせた。  誰かが泣いていると、自分は泣かずに済む。ふみは自分の悲しみをどこかにしまって、千代の悲しみに逃げた。千代を慰めることで、自分の傷ついた心をなかったことにしたかった。  それに破談で済んだ自分より、離縁となった千代の方が辛いに決まっている。 「ねえ、ふう。お仕事は決して辞めてはだめよ」  千代は震える声を振り絞って、そう言った。 「こうして一人になっても自分の足で立つことができないなんて惨めなだけだわ」  その言葉に、エレベーターガールとして楽しく働いていた千代の姿が思い出される。 可愛らしい丸襟のついたワンピースと頭にちょこんと乗せた帽子が千代によく似合っていた。  誰が見ても元気をもらえる笑顔を振りまく千代には、天職だったとふみは思っている。  ふみの憧れだった千代。いつも向日葵のようだった千代。 しかし、今はどこにもその姿は見当たらない。 「お姉さまは惨めなんかじゃない」  そうは言ったものの、離縁された女の立場があまりにも弱すぎることは、ふみも理解している。しかし、それは世間様の話だ。ふみにとって千代は今でも素敵な女性に変わりない。離縁されたからといって、それが揺らぐことはなかった。 「ありがとう、ふう。あなたは優しい子ね」  千代は涙を拭きながら、ふみを振り向き、そのまま優しい手付きで頭を撫でてくれる。冷え切っているはずの千代の小さな手は、母の手よりずっとあたたかく感じた。 「ふう、あなたは本当に愛せる人と結婚しなさいね」  ぽつり、千代がつぶやいた一言は、ふみの心に引っかかる。 「……うん」  返事に迷ったふみは、今この場で一番正しいだろう返事を返す。千代の言う、「本当に愛せる人」にも出会えそうにも無いし、「結婚」すらも怪しいというのに。  涙の落ち着いた千代を布団へと入れ、ふみは自分の寝支度を始める。  六畳半ほどの小さな部屋は二組の布団で一杯になった。どうやってこの狭い部屋で千代と二人過ごしていたのだろう、と不思議に思ってしまう。  あの頃は。  まだ二人とも十代のただの少女で、この部屋が世界のすべてだった。 ――私たちは知ってしまった。  ふみはそう思って、冷たい布団の中へと潜り込む。  永遠に続く幸せなんて無いことを。結婚に夢などないことを。両親の思う幸せと自分の幸せが違うことを。仕事ができれば自由になるなんて嘘だということを。女が独りで立つことを世間は歓迎しないということを。  ふみは知ってしまった。もう純粋無垢な少女には戻れそうにもない。  せめて明日が平穏であるように、姉が少しでも幸せになるように。そう願ってふみは瞼を閉じた。  いつもより冷たい布団の中、小さく丸まって眠ったのは姉が嫁いだ日、初めて一人で眠る恐怖と不安に駆られたあの日以来だった。
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