第一章 春――厳冬の名残

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 眠る前に願った通り、月島家の朝は久しぶりの家族団らんと言わんばかりの平穏を保っていた。 母は何だかんだと千代を励まそうと朝から好物ばかりを豪勢に食卓に並べた。父に関しては普段と変わりないが、何も言わないだけで幾分も気が楽だとふみは思う。 ――このまま何事もなければいいのだけれど。 しかし、それは朝だけの幻想だったようで。 ぱたぱたと忙しく一日を過ごしたふみが帰宅し、夕飯がすっかり片付いたところで、 「ふみ、さっそくだが見合いを持ってきたぞ」 と、父が三人の男の写真をふみに渡してきた。 「お父さま、私、まだ結婚は……」  戸惑うふみを見つめる父の目は、まるでふみを見てはいなかった。 「いいか、ふみ。今度は働きたいなどと言わないんだよ。退職しますとお伝えしなさい」 「嘘を吐けとおっしゃるのですか?」  驚いたふみの前で、父は不気味に微笑んだ。 「違うよ、ふみ。仕事を辞めるのは本当だ。働いていては結婚などできない。それに女の仕事は家庭を支えることだろう? それとも、家事は仕事ではないとでも言うのかい? 母さんはよく働いている。私はそう思うよ」  父はふみに口を挟ませまいと早口にまくし立てる。  母のことを言われてしまえば、ふみは何も言えない。それに家庭にいる女がどれだけ働いているか、母に仕込まれたふみは嫌というほどわかっている。 「これでも伝手をたどりにたどっていい家の縁談を持ってきたつもりだよ。まずは会って来なさい」 「お父さま、私……」 「千代からもお願いです。ふみをお嫁になんてやらないで。あたしみたいになったら嫌よ」  と、千代が並んで頭を下げた。 「千代、お前は関係ない」  父の威圧を含んだ声が(たしな)めるように千代を封じる。 「どうしてそんなに結婚を嫌がるんだ?」  訳が分からない、という父のため息が頭の上で聞こえた。  ふみと千代は頭を上げて、父の呆れた顔を窺う。 「結婚が嫌なわけではないのです。でも……」  続く言葉をふみは持っていなかった。  もちろん、見合いで良き夫を見つけることだってきっとできる。理解のある人と出会うことのできる可能性が全くないわけではない。  だが、ふみはその小さな可能性に賭けようなどと思うことはできなかった。 「こうしていても何も始まらない。ふみはとにかく見合いをしなさい。私が決めた人間でなくていい。お前がいいと思った人を選びなさい。この中にいなければ、次の候補を探してくる」  父はそう言って、自室へと向かった。 「あと二週間で相手が見つからなかったら、私の決めた相手と結婚しなさい」  背中だけで冷酷に語る敏夫に、ふみの体はその場に凍り付いてしまう。 「あなた、そんなに急がなくても」  ふみに代わって夕飯の片づけをしていた母が困惑したように割って入ってきた。  ぱん、と鈍い音が響く。  悲鳴にならない声とともに、母は居間の畳へと倒れ込んだ。 「お前がそんな風だから、娘たちは結婚できないんじゃないか?」  力任せに父が閉じた襖のせいで、家全体ががたがたと揺れたような気がした。 「お母さま!」  ふみと千代は同時に声を上げて、頬を赤く腫らした母に駆け寄る。 「いいのよ。気にしないで。あの人もあなたたちの幸せを願っているだけなの。わかってあげてね」  母は困ったように弱弱しく二人の娘に微笑んだ。  どうしてお母さまがぶたれなければならなかったのだろう。どうしてお姉さまが頭を下げなければならなかったのだろう。  どうして。 ――私が結婚しないせいで。働きたいと言っているせいで。全部、私のせい。  駆け巡る「なぜ」という疑問に、心の端では既に答えは出ている。  今日、いや、もっと前から、ふみが愛おしく思った家族は壊れていた。  家族の綻びほど、繕えないものはない。 ――私が結婚して皆が平穏に暮らせるのなら……。  自分の幸せがどこにあるのかわからないなら、せめて家族くらいは幸せにしたい。  そう思ったふみの心はどこか空虚で、幸せという甘美な響きとはおよそかけ離れた場所にあった。
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