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序章 春――花霞の幻
「三歩後ろを付いて来る妻になれ」
「仕事に口を出すようなことはしないでくれ」
「俺に文句をつけるようならすぐに離縁だ」
「結婚してやってもいい」
「そんな年まで結婚できないなんて君に問題があるんじゃないか?」
「働いている女の人は、男を尻に敷きそうだからな」
「君は一人でも生きていけそうだから」
「君と結婚しても幸せな家庭は作れなさそうだ」
そうやって誰からも選ばれなかったふみを、たった一人、ずっと見てくれていた人。
「もう我慢しなくていい」
顔を上げると彼と目が合う。小さく笑った彼の顔が近い。
ときん、と心臓が小さく跳ねた。同時に、ちくり、と小さな痛みも走る。
桜の花がひらひらと舞い、陽の光が麗らかに照る。
「俺と結婚しよう」
心配してくれている彼に、大丈夫だと伝えたかった。私は強いから。だから、大丈夫だと。
ふみも笑顔を返したはずだった。
それなのに。
――なんで私、泣いてるんだろう。
ほろほろと頬を伝う雫を、彼はすっと拭ってくれた。
なぜだろう。なぜこんなにも安心してしまうのだろう。
「わかりました。この縁談、お受けします」
「契約成立だ。必要な時にだけ、夫となろう」
「必要な時には、妻になりましょう」
桜の花を一つ、彼はふみに渡した。それが、契約の証であるように。
ふみはそれを受け取り、小さく一礼した。
その日、ふみは彼の前で静かに泣いた。
十七から我慢し続け、六年間の中で初めての涙だった。
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