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秋の章 すすきの簪 『旅の宿』
一、 『旅の宿』
女は、『紅葉の間』に入る前に、浴衣の襟抜き(襟を後ろにずらした着こなし)をして少しだけうなじを出した。そして、アップヘアに、たった今河原で折ってきたススキの穂を軽く刺した。
客室の引き戸を開ける。夜は十分に更けているが、部屋に灯りはついていない。窓が開かれ、八畳ほどの部屋に月の明かりが冴え渡っている。その窓の欄干にもたれて座っている影。月の光の逆光となって顔ははっきりとしないが、そのシルエットから浴衣を着た男性であることがわかる。山間の小さな温泉宿。部屋の下は、渓流の河原なのだろう、せせらぎの音がする。
「浴衣の君は、すすきの簪」
男は、『旅の宿』の一節を口ずさんだ。明かりもつけず、女はしばし立ち尽くす。やがて一言、
「一郎……?」
男の名をつぶやいた。顔ははっきりと見えない。でも滝沢一郎だ。間違いない。
「シイちゃん」
一郎が、月野詩織の愛称で答えた。
「一郎、一郎! 一郎だよね!」
詩織は、窓の桟に座っている一郎に飛びついた。一郎は、詩織を抱きしめた。激しく口づけを求める詩織に応える一郎。口づけしながら詩織は止めどなく涙を流した。
「一郎、一郎!」
今の詩織には、それが言葉の全てだった。一郎に会えた。一郎に抱きしめられた。口づけをした。彼女が5年の間、願い続けてできなかったことだ。今、願いがかなった。一郎もただ詩織を抱きしめていた。
どれくらい経ったろう、月の光は、ますます冴え渡り、お互い目と目を合わせた。
「一郎だ……やっとあえたよ」
詩織は、一郎の頬を掌でなぞった。
「シイちゃん」
そう言って、一郎は、詩織の涙を親指でぬぐった。詩織がへへへと笑う。
「5年ぶりだよね。あの時と全く同じ日、同じ時間、同じ部屋。私は、去年もその前の年も、毎年ここに来たのに、何度も何度も呼んだのに一郎は何故来てくれなかったのさ。私一人きりで寂しかったんだから」
落ち着いた詩織は、畳に座って言った。
「君がここに来た時だけでなく、僕は、いつも君のそばにいたんだよ」
一郎が、詩織を見てほほ笑んだ。
「嘘! あらゆる手を使って、一郎を呼び出したけど、いつも私は、ここで待ちぼうけだったよ。5年だよ。毎年この日この時間。この部屋で朝まで待ったのに一郎は来なかったじゃんか」
詩織は、拳を握りしめながら鋭く言った。
「シイちゃんには、見えなかっただけだよ。それどころか、さっきも言ったけど、僕はどんな時もどこにいても、シイちゃんのそばにいたんだよ」
やはり一郎は、薄っすらとほほ笑んでいる。
「嘘、嘘、嘘! それじゃあ何で、姿をあらわしてくれなかったのよ!」
半泣きの詩織の問いには答えず、一郎は、テーブルに乱雑に広げられているノートやスクラップブックを見た。
「これは、この5年間、シイちゃんが研究した資料だね。あれからもう5年にもなるのか。シイちゃんと出会ったのは、もっと前だったよね」
「今から7年前になるよ。大学で出会ってから、2年間付き合って、初めてのお泊り旅行がここだったじゃん」
胡坐をかいて、テーブルのスクラップブックを開いた一郎の背に寄りかかって詩織は言った。
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