チョコレート・ロスト

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「はぇ・・・え?」 知らない部屋。知らないベッドで寝ていた私は、起き上がって周囲を見回した。 本棚と机しかないシンプルな部屋だった。 窓の外を見ると、そこには見慣れた東京の街並みが広がっていた。 あれ?私なんでこんなところに居るんだろう? というかここどこだっけ? 鏡を見ると、まるで別人のように成長した私。 11歳であったはずの私が、今は20歳くらいの見た目になっている。 「ん~?」 私は自分の頬をつねった。痛い。夢じゃないらしい。 しかし、何故いきなり成長してしまったのか。 「うーむ」 とりあえず、記憶がはっきりしているところまで思い出してみよう。 私の名前は小鳥遊ことり。11歳。 確か、昨日、大好きなケーキやさんに行ったはずだ。 そこで、お母さんから聞いた話を思い出して・・・それで・・・ ふと、目の前に一枚の紙が落ちていることに気づいた。 「・・・就活セミナー?」 そういえばそんなことを言っていた気がする。 でもなんでここに落ちてるんだろ? 「ここに行けば、なにかわかるかな?」 よくわからないけど、なんだか気になったので行ってみることにする。 それにしても、この服、なんて地味なのかしら。 「おはようございます!」 受付のお姉さんに挨拶をする。 「あ、はい、おはようございます」 会場の中に入ると、中にはスーツ姿の大人たちが沢山いた。 「おぉ・・・みんなすごいね」 何がすごいって、みんなすごく真剣そうな顔をしていたのだ。 物珍しくてキョロキョロしていると、急に誰かが話しかけてきた。 「小鳥遊さん」 彼はスーツ姿でメガネをかけた優しそうな人だった。 「あなたも来ていたんですね。驚いたよ」 「えっと・・・」 誰だろう。全く心当たりがない。 「ごめんなさい、どちら様ですか?」 「ふふふ、まあ、無理もないですね。初めまして。僕は東雲と言います」 「はぁ・・・」 「今日はよろしくお願いします」 「は、はい!こちらこそよろしくです!」 どうしよう。全然覚えていない。 困っていると、東雲さんが助け舟を出してくれた。 「小鳥遊さんのことは知っていますよ。有名だから」 「そ、そうなんですか?」 「ええ、歯学部の天才少女だと聞いていました」 「へぇ・・・それは嬉しいような恥ずかしいような・・・・」 私、歯学部なんて選んだの? それって、歯医者さんになる道だよね。 (私、大学生だったんだ) 「なんだか夢を見てるみたい・・・」 「はい?」 「アッいえ、何でもないです」 (しまった。つい口に出しちゃった) 私があたふたしている間に、東雲さんはどんどん話を続けてきた。 「僕も、夢みたいだと思っていますよ」 「へっ?」 「あなたはずっと僕の憧れでしたから、こうやって話せるなんて夢みたいです」 「そ、そうですか」 照れる。 なんかものすごくキラキラした目で見られてる。 東雲さんってこんな人なのか。 その後も何とか会話を続けながら、会場を後にした。 帰り際、東雲さんに名刺を手渡された。 そこには会社名と彼の名前が書いてあった。 株式会社Smart-Coffee 代表取締役 東雲誠司 (結局、この世界についての手がかりは得られなかったな) 家に帰る途中、そんなことを考えていた。 就活セミナーに行ってみたけれど、特に収穫はなかった。 (とにかく、お家に帰ろう・・・たしかこっちのはず) 私は、いつもとは違う道を歩いていた。 「ん~・・・ここどこだろう?」 見慣れた景色だけど、どこか違う場所のような気がする。 しばらく歩くと、小さな公園を見つけた。誰もいない公園で、ブランコに乗っている女の子がいた。 その子は私と同じくらいの年齢で、赤いランドセルを背負っていた。 その横顔を見た瞬間、私の脳裏に何かの映像が流れ込んできた。 黒い服・・・知らないおじさん・・・知らない家・・・そして・・・ ズキリと胸が痛み、それ以上思い出してはいけない気がした。 私は全速力でその場から離れた。 「はぁ・・・はぁ・・・なにこれ・・・」 気付けば目の前のディスプレイには、おいしそうなケーキ。 そういえば、あの時もここでケーキを食べたんだった。 「ことりちゃん、美味しい?」 「うんっ!」 おかあさんのケーキは最高だ。 「ことりが大きくなったら、一緒に作ろっか」 「ほんと!?わーい!」 わたしは無意識に店のドアを開ける。 (ああ、落ち着く・・・) そこには色あざやかでかわいいお菓子たちがたくさん並んでいる。 「わぁ・・・!」 (そうだ、あたしは大人のおねえさんなんだから、幾らでも買えちゃうんだよね!?) 財布を取り出して中身を確認すると、何故か一万円札が入っていた。 「店員さんっ!」 呼ばれた店員さんが、私を見て目を丸くしている。 (え?わたしなんかした?) しかし、私は止まらなかった。 「このイチゴショートと、チーズケーキを一つずつください!」 「え、あ、はい」 「それと、あとシュークリーム一つ!」 「は、はい」 「それから、プリンアラモードひとつ!」 「はい」 「あ、あと、モンブラン!あ、この季節限定のフルーツタルトも!」 「はい」 「あとね、えっとね、あ、これこれ、アップルパイも下さい」 「かしこまりました、お会計は・・・」 「あ、これでお願いします」 私はクレジットカードを差し出した。 (ふふん、一回やってみたかったんだコレ) 「暗証番号をお願いします」 「へ?暗証番号?」 暗証番号なんか知らない。 (誕生日じゃないだろうし・・・シマ(※愛猫)の誕生日にしようかな) 試しに1112と打つと、どうやら正しかったようで無事に買うことができた。 品物を渡すとき、店員さんに話しかけられた。 「なあ、お前小鳥遊だよな?」 「え?」 「オレ、同じ高校の大野」 「あー・・・」 「いや、いいんだ。気にすんなって」 「ごめんなさい」 「ほら、チョコのマカロン、オマケしといてやるよ。お前好きだったろ」 「えっ」 わたしはチョコレートが嫌いなのだ。あの苦い味が苦手だ。 「ごめんね、私チョコ食べれないの」 「えっ?あっ、じゃあレモンにしとくよ」 「ありがとう!また来るね」 「おう、いつでも来てくれ」 (夢みたい!こんなにお菓子を買えるなんて) 私はうきうきでお店を出る。ここからの道なら分かるはずだ。 とにかくお母さんに会って話を聞こう。 お母さんは大人になった私を見てなんて言うだろうか。きっと驚くに違いない。 だが結局、私が生まれた家を見つけることは出来なかった。 *** 「はぁ・・・」 (小鳥遊・・・結婚したのか?) 小鳥遊は俺の高校時代のクラスメートだった。 それでいて、俺の好きな人でもあった。 女は20歳を過ぎると急に色っぽくなる。5年振りに会った彼女はとても綺麗になっていた。 その姿を見ているだけでドキドキする。 (でも、もう手遅れだ・・・いや、最初から手遅れか) 彼女はあの頃と違い、幸せそうに微笑んでいるのだから。 きっと、生まれてくる赤ん坊のために、カフェインを絶っているのだろう。 「はぁ・・・」 俺が彼女に想いを馳せていると、後ろからゴチンと頭を叩かれた。 「おい大野!ボケッとしてんじゃねェぞ!とっととメレンゲ1kg作りやがれ!」 俺はパティシエ見習いの大野。 今日も先輩に怒鳴られながら、必死で働いている。 *** 結局、わたしの家は見つからなかった。 探しても探しても、わたしの家があるはずのところには、知らない家が建っていた。 今朝目が覚めたマンションに戻ってきて、待っていれば二人が帰ってくるかと思ったけど、待てども待てども、二人は帰らなかった。 (お父さんとお母さん、どこ行っちゃったんだろう) 考えても答えは分からない。大好きなはずのお菓子も、ほとんど喉を通らなかった。 私は携帯を取り出して、ある人物に電話をかけた。 「・・・もしもし」 「東雲さん?」 「小鳥遊さん?」 「あのね・・・助けて欲しいの」 *** 「なるほど・・・異世界転移ですか」 東雲さんは、自家製の煎れたてコーヒーを私の前に置いた。 「うん。この世界は、わたしの知っている世界と何かが違う。きっと異世界転移したんだわ」 彼は私の言葉を聞いて、首を傾げた。 そして、わたしの目を見つめる。 彼の瞳には慈愛のような、優しさのようなものが宿っていて、何故か泣きそうになった。 「あなたは間違いなく小鳥遊さんですよ。ところで、今年が西暦何年か分かりますか?」 「えっ?今年は・・・1999年じゃないの?」 「いいえ、小鳥遊さん。今年は2022年、東京オリンピックが開かれた年の翌年です」 「えっ!?そんな、だってわたしは・・・」 「小鳥遊さん、たぶんあなたは、記憶を失っているんじゃないでしょうか?」 「きおくを?」 「えぇ。例えば・・・高校一年生の春休み、家族旅行で乗ったバスが崖崩れに巻き込まれ、自分は奇跡的に助かったけれど、両親や友人は亡くなってしまった。その後親戚に引き取られたが、自分のことを覚えていない子供に戸惑うばかりで、引き取ってくれる人は現れなかった。仕方なく児童養護施設に預けられることになったものの、そこは自分より遥かに劣悪な環境だったので、脱走して一人暮らしを始めた」 「な、なんのこと?わたしはずっと、一人っ子だったよ?」 「まぁ、あくまで例えですから。どうでしょう、当たらずとも遠からずではないですか?」 「うーん・・・」 確かに、言われてみると心当たりがないこともない。 だけど、自分が親無し子だなんて信じたくない気持ちもあるのだ。 「小鳥遊さん。僕を信じてください。僕はあなたの味方ですよ」 「でも、どうしてそこまでしてくれるの?わたし達、まだ会ったばかりなのに」 「言ったはずです。僕はあなたに一目惚れしてしまったんです。僕の恋路を邪魔しないでくださいね」 (やっぱりよく分かんない人だ) 「ねぇ、東雲さん」 「はい」 「ありがとうね」 *** 次の日、私はまたカフェに来ていた。 昨日の今日で、すぐに東雲さんに会えるとは思っていないけれど、ついキョロキョロと探してしまう。 すると後ろから「おい」と声を掛けられた。振り向くと、そこには見覚えのある顔があった。 「小鳥遊」 「あっ、ケーキ屋さんの・・・」 「大野だよ。お前、本当に忘れちまったのか?」 「ごめんなさい、私、何も思い出せないの」 (そうだ、きっと彼なら) 「ねぇ、お願い!私の家を探してほしいの!」 「お、おう・・・」 「私、どうしてもそこに帰らなくちゃいけないの!」 (きっと彼なら・・・) 「・・・分かった。とりあえず今日は帰れ。明日から一緒に探しに行こうぜ」 「うん!」 *** 私は大学には行ってない。 行ったところで授業なんててんで分からないだろうし、そもそも歯の勉強なんて何が楽しいのか分からない。 (わたし、ケーキ屋さんになりたかったはずなのに。どうして歯医者さんなんて目指してるんだろう) きょうはブティックに来ていた。自分の服のあまりのセンスの悪さに耐えられなくなって、ついに買ってしまったのだ。 (うわぁ・・・私、可愛い・・・) 鏡の中の自分は、まるで別人みたいだった。 こんな服を着ている女の子を見たことがない。 店員さんも「お似合いですね」と言ってくれた。 「あ、あの!これ買います!」 「はい、ありがとうございます」 会計を終えて店を出ると、一人の男の子がいた。 (あれ?この子どこかで見たような・・・) 彼は私に気付かず、ふいと去ってしまう。 (何だったんだろう、今の) *** 「うちでバイト?」 「うん。そこにはりがみがあるでしょ?あれって、働いてくれる人を探してるんじゃないの?」 「そうだけど・・・お前、字は書けるのか?」 「うん、ひらがなくらいなら」 「・・・じゃあ、明日履歴書持ってこいよ」 「うん!ありがとね、大野くん」 翌日、わたしは面接を受けた。 「あの、わたし小鳥遊といいます。よろしくお願いします」 「ふーん、可愛いじゃん。俺は店長の後藤だ。採用」 「えっ!?」驚いたのは大野くんだ。 「何?文句あるわけ?」 「いえ・・・その、ただ彼女は記憶が・・・」 「は?そんなの関係ないだろ。とにかく採用」 「えっと・・・」 「・・・よかったな、小鳥遊」 その日から、わたしはパティスリー「オーガニック」で働き始めた。 仕事内容は、接客、調理補助、掃除など。 忙しい時は、一人で十人ものお客さんを相手にすることもあるらしい。 わたしは必死に働いた。大変だったけれど、大好きなケーキに囲まれて働けることが幸せだった。 「それでね、大野くんってばひどいんだよ?わたしの作ったケーキに『砂糖入れすぎ』とか言うの」 「おや、それは酷いですね。僕だったらそんな失礼なことは言いませんけど」 ある日、いつものように彼のカフェで話していると、彼が唐突にこう言った。 わたしは一瞬、何を言われたか分からなかったけど、きっと気を遣ってくれてるんだと思った。 「ありがとう。・・・なんだか誠司さんと話してると、家族を思い出しちゃうなぁ」 「そうですか?僕には、あなたの方が家族のようだと思いますがね」 「えぇ?私が?」 「だってあなた、僕のことを名前で呼ぶじゃないですか。まるで恋人みたいに」 「こっ、恋び・・・!?」私は思わず赤面する。 今まで、そういうことを考えたことがなかったから。 「ふふっ、冗談ですよ」 「もうっ!からかわないでください!」 そう言ったあとも、胸がドキドキして収まらなかった。 *** 「今日はね、誠司さんのカフェに行ったんです」 「ああ、あのいけ好かない野郎の店か」 「はい。それで、誠司さんとも会いました」 「へぇ、あいつとねぇ」 「あの人、すごくいい人です。私のこと、助けてくれるんです」 「あのなぁ、小鳥遊・・・お前はまだ子供だから知らないかもしれないけどさ」 「なんでしょう」 「あんまり簡単に人を信用しすぎるのはよくないぞ」 「どうしてですか?」 「どうしてって・・・そりゃあ、俺みたいな悪い奴もいるからだよ」 「でも、あなたは良い人だと聞きました」 「誰に聞いた?」 「店長に」 「ははっ、何だそれ。騙されてんのかよ」 (何で笑ったの?) 大野くんは、私にとって大事な友達だ。 なのにどうして、そんな風に笑うの? 「ねぇ、どうして・・・」 「あ?どうした?」 「どうして、私を助けてくれたの?あの時も、今も」 彼は少し困ったように頭を掻いた。 「何言ってんだ?お前、まだ頭おかしいんじゃねえの」 「おかしくなんかありません。本当に分からないんです」 「困ってるやつを助けるのは当然のことだろ」 「やっぱり大野くんは優しいね」 「お前・・・何でそうやって俺を持ち上げようとするわけ?」 「別にそんなつもりは・・・」 「あんまり気を持たせるとさぁ・・・勘違いされるぜ?」 「え?」 「なんでもない。ほら、そろそろ帰れ。俺はこれから明日の下ごしらえがあるんだ」 「私、手伝うよ」 「素人に何ができる」 「できるもん!それに、少しでも早く覚えたいし」 「じゃあ教えてやるから、まずはここを洗ってくれ」 「はいっ!」 「おい、包丁持つときは猫の手だ」 「こうですか?」 「違う、もっとぎゅっと握れ。指切るぞ」 「はい!ぎゅーっ!」 「よし、じゃあその状態で林檎をみじん切りにしてみろ」 「はい」 トンッ 「・・・お前、今どこ切った?」 「え?左手の人差し指だけど」 「見せろ」 「え?」 大野くんはわたしの手を取ってまじまじと見る。 その瞬間、心臓がドキリとした。 「血が出てんな。大丈夫か?」 「う、うん・・・」 「やっぱりもうお前は帰れ。足手まといだ」 「ご、ごめんなさい」 私はトボトボと歩きながら、家に帰った。 *** 次の日、わたしはまた大野くんの手伝いを志願した。 「お前・・・凝りねぇなぁ」 「だって、少しでもうまくなって、大野くんの力になりたいんだもん」 「は?力になるってどういう意味だよ」 「えっ?そ、それは・・・」 まさかそこを問いただされると思っていなかったので、私は急に恥ずかしくなってしまった。 顔が熱くなるのを感じる。きっと真っ赤になっているに違いない。 「その。とってもお世話になってるから、恩返ししたいと思っただけだよ!」 大野君はしばらく黙っていたが、やがてふっと笑って言った。 「俺は恩返しされる権利のない人間だよ」 「・・・へ?」 「まあいいか。今日は昨日よりは上手くなってるか見てやろう。ついてこい」 そうして二人でキッチンに立つことになった。 すると、彼はわたしに指示を出す。 「まずは手を洗うところからだ」 「はい!」 言われた通りにしっかり洗い、彼のところへ戻ろうとする。しかし彼は何故かそれを止めた。 「ちょっと待て」 そしてポケットの中からハンカチを取り出した。 「これ使えよ。濡れたままだと、菌が入るかもしれねぇからな」 「ありがとう!」 わたしは笑顔で言った。大野君も満足そうだった。 *** それからわたし達は、一緒にお菓子を作った。 彼に色々と教わりながら、なんとか作業をこなしていく。 「今日はこのくらいにしとくか」 「やったー!終わった~!」 「喜んでいる場合じゃないぞ」 「あっ、そういえば、明日が賞味期限のプリンがあったんだ!急いで食べなくちゃ!」 「待て!まだ片付け終わってないだろ!?」 「でも・・・」 「でもじゃねえ。俺の言うことが聞けないのか?」 「はい・・・」 「よし、いい子だ」 そんな風にして、一日が終わった。 その日、私は夢を見た。 お父さんとお母さんの夢だ。 二人はいつものように仲睦まじく寄り添っていた。 『ことりは大きくなったら、どんな大人になりたいかい?』 『んっとね、ケーキ屋さん!』 『あら、いいわね。でも、その夢を見届けられなくてごめんなさい』 『どうして?』 『ステキな大人になるのよ。きっと夢を忘れずに』 『おかあさん?・・・・あつい・・・苦しいよ・・・・』 そこで目が覚めた。 身体中汗びっしょりで気持ち悪い。 時計を見ると、まだ夜の九時。寝直そうとしたけど、とても眠れる気分ではなかった。 「何だろう、この嫌な感じ・・・」 気が付くと、私の足は大野くんの家に向かっていた。 *** ピンポーンインターホンを鳴らす。返事はない。 「いないのかな?」 もう一度鳴らそうと手を伸ばすと、突然扉が開いた。 「何だお前、こんな時間に」 「あ、あのね、その、えっと」 「帰れ」 「やだ!」 「何なんだ一体」 「ご、ごめんなさい」 「・・・入れよ」 「えっ?」 「だから、入ればいいだろ」 「いいの?」 「ああ。ただし早くしろ」 「うん」 大野くんの家に上がるのは初めてだった。ドキドキする。 リビングには大きな本棚があって、そこにはたくさんの本が並んでいた。 「すごい、お菓子の本がいっぱいある」 「まあ、勉強は基本だからな」 「ふぅん。あれ、これは?」 「あ、それは・・・」 大野くんは何かを隠そうとしている様子だった。 「それは・・・お前がくれた本だよ」 「・・・」 『甘いお菓子の作り方』というタイトルのそれは、まったく見覚えのないものだったが、ところどころに付箋が貼られていた。 「ねえ、大野くん。『恩返しされる権利のない人間』って、どういう意味?」 「・・・」 「教えてほしいの」 「・・・それは、お前が知る必要のないことだ」 大野くんの声はとても冷たかった。思わずゾクッとする。だけどここで引き下がるわけにはいかない。 「お願い!」 「しつこい女は嫌われるぜ」 「それでも知りたい!」 「・・・」 「大野くんのことなら何でも知りたいんだよ!」 「・・・」 「だってわたしはあなたのことが好きだから!!」 「・・・え」 一瞬で頭が真っ白になった。自分が何を言っているのか理解できなかった。 「好きってどういう意味だよ」 「そ、そういう意味です」 「・・・おまえ、恋愛の意味分かってんのか?恋をするっていうのはな、ただ一緒にいて楽しいとか、幸せだとか思うだけじゃねえんだぞ」 「知ってるよ。でも好きなものはしょうがないじゃん!」 「・・・」 「わたしはあなたが好き!それだけ!」 そう言って私は部屋を出ていった。 彼の家を出たときにはもう辺りは暗くなっていた。 「私、告白しちゃったんだ・・・」 そう呟くと、急に恥ずかしさがこみ上げてきた。 顔が熱い。心臓が激しく脈打っている。 「これが恋なんだ・・・」 そのとき、夜道の向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。 それが誰なのか分かった瞬間、わたしの心は弾んだ。 「東雲さん!」 「驚いたな。こんな夜中に一人で出歩くなんて危険じゃないか」 「平気だよ。それより、東雲さんのお家に行ってもいい?」 「え?別に構わないけど」 「やったー!お邪魔しま~す!」 東雲と一緒に家の中に入る。 「それで、どうして僕の家に来たんだい?」 「んっとね、さっき変な夢を見て怖くなったの。だから一緒に寝ようと思って」 「そうか。それじゃあ僕は自分の部屋にいるから、ゆっくりしておいてくれ」 「えっ、ちょっと待ってよ!」 「どうした?」 「あのね、その、今日は一人になりたくないの」 「でも、僕と一緒の部屋では眠れないだろう?」 「そんなことないよっ!友達の家にも何度かお泊まりしたことあるもん」 「いや、確かにそうなんだけど、それは女の子の友達だろ?」 「男の子だとどうちがうの?よく分かんないよ」 「とにかくダメなんだ。どうしてもというなら、せめて別の部屋にしてくれ」 「じゃあ、わたしが東雲さんの隣で寝るっ!」 「はぁ!?」 「それならいいんでしょう?」 「いい訳ないだろ。頼むから勘弁してくれよ」 「どうしてだめなの?」 「・・・」 「ねぇ、なんで黙っちゃうの?ねえ、答えてよ!」 「・・・」 「なんとか言ったらどうなの?」 「・・・」 「・・・そうやっていつもきみは振り回すよね」 彼はため息をついて、そして眼鏡を外した。 「ぼくが男だって、まだ分からないのかい?」 その声を聞いて初めて、私は得体のしれない恐怖を感じた。 「え・・・?」 彼はわたしをベッドに押し倒した。 「きゃあっ!」 「暴れると怪我するよ」 「やだ・・・離して!」 抵抗してもびくともしない。大野くんとは全然違うんだと思ったら涙が出てきた。 「泣かないでくれ。お願いだから」 「嫌だよ、怖いよぉ!」 「おい、お前、何してる!?」 玄関から入ってきた大野が二人を引き剥がす。 「はぁ・・・間に合ってよかったぜ」 「大野くん!助けに来てくれたの?」 「当たり前だろうが。ほら、帰るぞ」 「うんっ」 私は彼の手を握って歩き出した。 「待ってくれ!」 後ろから東雲の声が聞こえたけれど、私たちは振り返らなかった。 家を出るとき、彼が何か言っていたような気がしたが、私の耳には届かなかった。 *** ふたりで歩いていたときも、わたしはずっと考えていた。 さっきの大野くんの言葉についてだ。 (大野くんが言う『恩返しされる権利のない人間』ってどういう意味?) 「なに考えてんだよ」 「え?あ、ごめんなさい」 「俺のほうこそ悪かったよ。まだ子供だけど、ちゃんと大人なんだもんな・・・」 彼は私の髪をわしゃわしゃと撫でた。 「ちょっ、やめてください!」 「ハハッ、照れてやんの」 「もうっ!知らないっ!!」 私は顔を背けた。心臓の音がうるさい。 「・・・なあ」 「なんですか」 「おれはお前に黙っていたことがある」 急に立ち止まって、真剣な表情で言うものだからドキッとした。 しかし次の瞬間には悲しそうな笑みを浮かべていた。 「おまえの両親はもうこの世にいないんだ」 「・・・・えっ?」 言われたことの意味が分からなかった。 「どういう意味ですか?」 私が訊くと、大野は辛そうに目を逸らす。 「そのままの意味だよ。おまえの両親は交通事故で死んだ」 「嘘・・・でしょ・・・?」 「いつの事かは分からないが、お前は親戚の家で育てられたと言ってた。生家がないのは、お前はその家に引っ越したからだろう」 「そんな・・・」 「すまない。でも本当の事なんだ」 「うそ・・・だよ・・・」 私はその場に崩れ落ちた。 「大丈夫か?」 大野が肩を支えてくれたけど、上手く立てない。 「どうして、今まで黙ってたんですか?」 「・・・言えば記憶が戻るかもしれないと思った。おれは・・・今の小鳥遊のほうが好きだから」 「え?」 顔を上げると、彼は泣きそうな目をしていた。 「高校の頃のお前は、すげぇ冷めた感じだった。いつもつまらなさそうにしててさ。でも、今は違う。笑うようになったし、楽しそうだ」 「・・・ありがとうございます」 「だから、思い出さないほうが幸せなんじゃないかと思って」 「そんなふうに思ってくれてたんですね・・・」 私は嬉しくなって、笑顔になった。 すると大野くんも微笑んでくれた。 でも、すぐにその表情は曇ってしまう。 「でも、そのせいでお前を危険な目に遭わせちまっ・・・」 「それは違います!」 私は彼の言葉を遮った。 「私を助けてくれて本当に感謝しています。あの時、あなたが来なければ今頃どうなっていたか・・・」 「けどよ・・・!」 「大野くん、聞いてください」 私は大野くんの目を見つめる。 「確かに私は両親が亡くなったショックで、自分の感情を押し殺していたかもしれません。でもね、きっとそれだけじゃないと思うんです。私は・・・寂しかったんですよ」 「・・」 「お父さんもお母さんも大好きでした。なのに、いきなりいなくなってしまって、すごく悲しかった。だから、新しい家族と一緒に暮らすことが苦痛で仕方がなかった。心の底では、どこかで独りぼっちのような気がしてたんだと思います」 「・・・」 「でも、今は幸せです。みんながいて、毎日楽しくて、こんな時間がずっと続けばいいのになって思うくらいに」 私は大野くんの手を取った。 「だから、これからはもっと楽しいことをたくさん経験したい。それに、大野くんにも恩返しをさせてほしい」 「お前・・・」 「ねぇ、私たち友達でしょう?遠慮しないで頼ってよ」 大野くんはしばらく俯いていたけれど、やがて口を開いた。 「分かった。それじゃあひとつだけ頼みがある」 「はい、なんですか?」 「俺のケーキを食べてみてくれないか?」 「大野くん・・・の?」 「ああ。まだ店長のには及ばないかもしれないが、それなりに美味くなったはずだぜ」 「本当?楽しみだなぁ」 私はわくわくしながらフォークを手に取った。 そして一口食べると、ふわっと広がるチョコレートの風味に驚いた。 「すごい!甘くて、ほろ苦くて、濃厚で・・・懐かしい」 (懐かしい・・・?私、この味、どこかで・・・・) そのとき、わたしはすべての記憶を取り戻した。 「そっか・・・私に初めて作ってくれたケーキが、チョコレートケーキだったわね」 *** 「おい、大野ちょっとツラ貸せや」 放課後の教室で、俺は不良グループのリーダー格である藤宮に呼び出された。 俺とコイツらは中学時代からの同級生だが、あまり仲が良いとは言えない。 なぜなら、彼らは暴力的で自分勝手で、他人の痛みなんてこれっぽっちも理解しようとしなかったからだ。 「てめェらに貸すツラなんざねえよ」 「あァ!?」 藤宮の取り巻きが睨みつけてくる。しかし、俺は怯むことなく言い放った。 「何度言ったら分かるんだ?お前らのやってることはいじめだって。これ以上やるなら先生にチクるぞ」 「ンだとコラ!舐めてんじゃねーよ!!」 リーダーの合図で、男達が一斉に殴りかかってきた。 「・・・」 俺は無言のまま彼らを殴り返す。 一人またひとりと倒れていき、最後の男が逃げようとしたところを背後から捕まえた。 「ひいっ!!助けてくれっ!!!悪かった、謝るから許してくれよぉ!!」 「・・・」 俺は男の髪を掴むと、顔を近づけて静かに告げた。 「お前らが二度と佐藤に手を出す気が起きないようにしてやるよ」 「ぎゃあああっ!!!」 悲鳴を上げる男をゴミ箱の中に放り込むと、俺はその場から立ち去った。 「・・・やりすぎよ」 後ろを振り返ると、そこには腕を組んだ小鳥遊の姿があった。 彼女は呆れたような表情をしている。 「てめェが頼んだんだろうが」 「そうだけど・・・」 俺達はお互いの顔を見て笑った。 彼女が俺にお願いしてきたのは、とある男子生徒をイジメから救ってほしいというものだった。 その相手とは、彼女の幼馴染みの佐藤健斗という奴で、俺はそいつを助けるために奔走したのだ。 最初は無視するつもりだったが、彼が殴られている現場を目撃してしまい我慢できなかった。 その後、俺達のやり取りを目撃した教師によって、彼らの悪事は暴かれ、藤宮たちは退学処分となった。 俺はこの一件をきっかけに、今まで苦手だった学校生活を楽しむことができた。今では、クラスの中心人物になったし、彼女とも仲良くなった。 彼女は今や正義のヒーローで、不正を微塵も許さない姿勢が女子からも支持されているらしい。 そして現在、俺たち二人は高校二年生になっていた。 俺達はあの一件以来話すことはほとんど無く、たまに廊下ですれ違う程度の関係に落ち着いてしまっていた。 そんなある日のこと。 授業が終わった直後、誰もいないと思って教室に入ると彼女がいた。 「よう」 「お疲れ様です」 俺は自分の席に座ると、鞄の中から弁当を取り出して食べ始めた。 すると、小鳥遊がこちらを見ていることに気付いた。 「なんだ?」 「いえ、ただ珍しいなって思って」 「なにがだ」 「あなたが学校で誰かと一緒に食事をするなんて」 「そんなこと言ったらお前もそうだろ」 「私はいいんです。みんなが寄ってきて大変だし」 「相変わらず人気者だよなお前」 「・・・ちがうわ。みんな私を利用しているだけよ」 「・・・」 俺は何も言わずに食事を続けた。 しばらくして、ふいに小鳥遊が口を開いた。 「大野君は進路決まった?」 「俺は・・・」 俺はそこまで言いかけて、はっと気づく。 (あぶねぇ、危うく普通に言いかけた) ヤンキーのくせに甘いものが大好きな大野は、実はパティシエになりたいと密かな夢を抱いていた。 しかしそれを知られるとバカにされると思った彼は、誰にもそのことを話していなかった。 「いや、まだ決まってないな。お前は?」 「私は歯学部に行くわ。養父の仕事だし、堅実だもの」 「へぇ、お前が医者か・・・なんか似合わんな」 「そんな事言うの、あなただけだわ」 「お前はもっと・・・」 そこで俺は言葉を止める。 (いかんいかん、余計なこと口走るところだった) 俺は慌てて誤魔化すように話題を変える。 鞄から手作りのチョコレートケーキを取り出し、小鳥遊に差し出した。 「ほれ、これ食えよ」 「これは・・・もしかして、作ったの?」 「悪いかよ」 彼女は目を輝かせながらチョコケーキを受け取った。 「ありがとう!嬉しい!」 「ふん」 「いただきます」パクッと一口食べると、彼女から笑顔がこぼれた。 「おいしい!これすごく美味しいよ」 「当たり前だろ」 「こんなにお菓子作り上手なのに、なんで普段から作らないの?もったいないと思うけど」 「それは・・・まあ色々あるんだよ」 「もしかして、お菓子を作るのが恥ずかしかったりするの?」 「ああ」 「でもさっきは堂々と渡してたじゃない」 「お前だから特別だよ。他の奴には絶対見せらんねえ」 「え・・・?」 「今日、バレンタインデーだろうが。いつも世話になってるからその礼ってことで受け取ってくれ」 「・・・大野君。顔、真っ赤よ」 「うるさいぞ」 小鳥遊がクスリと笑う。つられて俺も笑った。 「お前・・・お菓子食べるときだけ別人みたいに笑うのな。俺はもっとお前にさ・・・・」 「どうしたの?」 「・・・なんでもねー」 「変なの」 *** 引き取られた先は両親と比べ物にならない程厳しくて、私は自分の心に蓋をした。 何かを好きだと思う感情も、自分の人生を楽しむことも、全部諦めた。 けれど、そんな私にも心の底から大好きと言える人ができた。その人はぶっきらぼうで無愛想だけど、本当は誰よりも優しい男の子だった。 彼と出会ってからは毎日が楽しくなった。 彼と一緒にいるだけで、今までの自分とは違う生き方ができる気がした。 「・・・私、大野くんの事が好きだわ」 「・・・記憶戻ったのか?」 私の口調で察したのか、彼は真剣な表情をしていた。 「うん。全部思い出せたよ。辛いことばかりだったけど、大野君が助けてくれたおかげで今の私が居るんだよね」 「別に俺は何もしてねぇよ」 「・・・今日、バレンタインデーね」 私の言葉に、彼がピクっと反応する。そしてそっぽを向いて言った。 「そうだったっけか?」 「もう忘れちゃったの?酷いなぁ」 「俺は甘いもん苦手なんだよ」 「じゃあ、嫌いになった?」 「そういうわけじゃない」 「ふぅん。そうなんだ」ニヤニヤしながら顔を近づけていく。 「なら、私からのチョコ受け取らなくていいのかな?」 私は彼の顎をクイッと持ち上げると、そのまま唇を重ねた。 「んなっ・・・」 「私、決めたわ。パティシエになる。子供の頃の夢、叶えたいの」 私は立ち上がって大きく伸びをする。 「大野君の為だけに作るケーキは、私にしか作れないくらい最高なものにするわ」 「・・・勝手にしろ」 「ふふふ、ありがと」 「けどよ」 そう言って彼は私を抱き寄せた。 「お前は俺の女だ。他の男になんか絶対に渡さない」 「大野君・・・」 私達はもう一度キスを交わし、お互いを強く抱きしめあった。 [newpage] 「大っっっっ変申し訳ありませんでした」 後日。私は藤宮さんに土下座していた。 「精神年齢が11歳だったとは言え、あのような振る舞い、あなたを誘惑
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