歌舞伎町のセラピスト

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歌舞伎町のセラピスト

街行く人々はもうとっくに、それぞれの役割を果たすためのパーツとして動き出していた。 そして私もこの街を動かす小さなネジのひとつだった。 冬の冷たい空気の中で、朝日を浴びながら新宿駅の大ガード下をくぐり、ドン・キホーテを横目に、人込みをかきわけながら、私はママチャリを漕ぎひた走っていた。 道端ではカラスが生ごみの袋を突いている。 夜の比ではないけれど、私の行く手を阻むほどには、人の波は出来ていた。 息を切らしながら目的地にたどり着いた私は、道路沿いにママチャリを止め、鍵をかけた。 治安の悪いこの街で、同僚の男性スタッフは鍵を付けた新品のクロスバイクをもう3回も盗まれたと言うけれど、私のボロボロなママチャリはいまのところ盗まれる心配はなさそうだ。 その8階建てのビルは、歌舞伎町と呼ばれる繁華街にあった。 しかし歌舞伎町と言っても大きな靖国通り沿いにあるからか、裏通りの猥雑で危ない雰囲気からはかけ離れた清潔さを保っている。 通りの向こうには映画館があり、その看板には公開中のロードショーの主演女優が、生足のつま先を相手役俳優の口元へ差し出している。 自動ドアでビル内に入り、エレベーターに乗り込み、6のボタンを押す。 6階にたどり着き、廊下を右側に進むと、私のバイト先であるリラクゼーションサロン「リリー」の入り口がある。 男性が通う限りなく風俗店に近いグレーゾーンの店ではなく、健全なマッサージ専門店だ。 「リリー」という店名はオーナーの奥さんの「百合子」という名前から付けられたそうだ。 私はこの店「リリー」のセラピストとして働いている。 ガラスの扉を押し開けて暗い店内の電気を点けると、受付と待合スペース、そしてその奥にある均等に並べられた施術ベッド8台がその姿を現した。 待合フロアのすぐ右にあるベージュのカーテンを開き、3人で定員オーバーになってしまう狭いバックヤードへ入る。 そこでスタッフは着替えをしたり、空いた時間に食事をしたり、束の間の休息を取ったりするのだ。
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