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涙をブーケにして
***
ジムナーズ入学よりもずっとずっと前のこと。まだ、幼くて自我も曖昧だった頃の。
「救いの御子だけがご自分の命を捨てる力と、その命を再び受ける力を備えておられました。
彼の方だけが、全人類のための贖罪をお出来になったのです。貴い犠牲により、罪は贖われました」
司祭の説教をそっちのけに、皆ひそひそ話に夢中だった。
シフォンでできた頬を寄せ合い、飴細工のようにピンと張りのあるまつ毛をしばたたかせ、たわいないことで笑う。
黒いワンピースの制服には肩まで隠れる大きな白い襟がついていて、光を集めて私たちの顔を明るく照らしている。
年上の子らの話題は、ちょっと背伸びをしたものだった。
「最前列には貴族しか座れないって知ってる?」
「元貴族よ。見てよ、トリスタン様の麗しいこと。歌ってるとき目が合ったらどうしよう」
「あんたたちねえ、神様の前でそんなお喋りが許されると思っているの? 私たちは合唱団としてここに招かれているの。きちんとお勤めを——」
「真面目っ子は黙ってて。ねえマリー? あなたも思うでしょ? トリスタン様って素敵よね」
急に話を振られて、それまで注いでいた視線を悟られぬようさっと目を伏せた。しかし、話しかけてきた子は鋭かった。
「もしかして、いまジョジュエ様を見てた? 嘘! あんなのが好み? ヤギだか羊だかみたいな顔してるのに」
さざなみのようなくすくす笑いが満ちる中、ひと言も発さぬままにうつむく。
嫌だ、年長になるってこういうことなのかしら。こんな馬鹿馬鹿しい話はさっさと終わってほしい。
誰かがまた口を開く。
「そう言えばジョジュエって名前、救いの御子とおんなじね」
ジョジュエ・ドゥ・ブルボネ=ラ・リュテス。
華のある白銀王・トリスタンの隣にぼんやりとした風体で腰かけている彼に、なぜか釘づけになった。
別段熱に浮かされるような心地はなかったが、できることなら時間をかけて彼を観察していたいと、おかしなことを思った。
失礼だけど、父の田舎にいた羊を見ているのが好きだったから? いえ、わからない。
まだ青年と呼んでよさそうなのに、草食動物のように少し間延びした面差しは年齢以上に落ち着いており、光に力なく目を細めるさまは何かを諦めた人のようだった。
何をどう歌ったのかもう覚えていない。
でも退場の間際、たまたま目が合ってしまったあの人に反射的にお辞儀をすると、彼もまた驚いたように会釈をしてくれた。思い出はそれだけ。
ジョジュエ、あの人はもうこの世にいない。
羊の顔をした善き羊飼いはすべての罪を背負い、この世の悪を掃き清めんがため、逝ってしまったのだった。
なんと、私の代わりに。
***
人生を振り返ると、これでよかったのかと足が止まる日もある。正しさを求めて生きてきたつもりだけれど、失ったものも多かった。
それでも日々信じた目を拾い、黙々とレースを編んでいく。
『美しかったわね』
「自分は間違っていてあなたは正しかった」と泣きじゃくるオランプにかけた言葉を思い出す。
『私たちは美しい日々を過ごしたわね』
いつか針を置き、静かに息をついて、出来上がった模様の全容を知る日に同じ台詞を言えるだろうか。
もうすぐ5月になる。次の休暇にはスズランを摘み、レースを飾ってブーケにして、オランプに会いに行ってもいいかもしれない。
もう泣くことなど忘れたつもりだった私のスズランを、あの子に受け取ってほしい。
「私ならあなたを泣かせたりしないわ」
そういたずらっぽく微笑み、どうか何も聞かずに抱き締めていて。
Fin.
All photos by Pexels
※ご興味があれば同じくエブリスタ掲載の本編、『秘色のステラマリス』へお越しください。
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