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桜の樹の下
曖昧な、熱。
北校舎、1階。
足元にわずかに残る西日。いちばん端っこの、暗くてじめじめした生物実験室の前。
俺の目の高さの壁に貼られたポスターには、でかい口を開けた人間らしきものと、手洗いうがいをしましょうという標語が書いてある。
「………っ、」
声なんて出させない。
逃げる唇を追いかけて、塞ぐ。
放課後。
キスをし始めたのが4時29分で、今、4時31分。
ここから実験室の中の時計が見えて、秒針が俺の欲望を切り刻んでいる。
草薙の手首を捉えて、壁に押し付けている。
細い手首は骨が当たって、小柄な体は砕けそうだ。
だが俺は力を込めるのを止めない。
何かを堪えるように眉をひそめて、苦しげな表情をしている。
俺は理由のわからない焦りに掻き立てられる。
「………ふ…」
また、声が漏れるのを舌で絡め取る。
息もすんな、と願う。
草薙は口元に手をあてがい、息を整える。
白い頬がばら色に上気している。
歪んだネクタイを直し、髪を直した。
取り落としてばらばらに散らばった、どこかのクラスの人数分のプリントを拾う。
「…僕はまだ仕事があるから」
顔を上げたときは既に穏やかな表情になっている。
何事もなかったのかと錯覚させられる。
いや、何事もなかったのだ。この男には。
「…ああ」
わかってるんだよ、そんなことは。
「気をつけて帰るんだよ」
揃えていない、かさばったプリントを胸で両腕を交差して抱えている。
「…言われなくてもそうする」
「鞄は? 無いの?」
俺は手ぶらで、ポケットに文庫本だけ押し込んでいた。
「…持って来てない」
「教室? それとも、学校に持って来ていない?」
「わかんない。忘れた」
どっちでも良かった。
ただ俺にとって重要なのは、この男に触れること。
「帰る」
草薙は俺の背中に向かってもう一度、気をつけてねと声をかける。
あんなことをされたのに。しかも生徒に。
気をつけてなんて、どうかしている。
曖昧な熱が、こもったまま離れない。
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