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一度口に出されただけで、メモを渡されたわけでもなかったのに、その日付は忘れなかった。
忘れられなくて釘付けになったまま、すぐにその日は来てしまう。
「…出かけてきます」
リビングに顔をのぞかせると、義母が弟に何か食べさせているところだった。すでにぐちゃぐちゃの、玉子色の物体。
弟本人はスプーンを手に持っているがプリンに突き刺しているだけで、義母の持った方のスプーンから食べているようだ。
「はーい。いってらっしゃい」
「お父さんは?」
「朝からゴルフ。また接待ですって」
父親は相変わらず忙しいらしい。
「にいにい!」
弟にとって俺は両親いわく「レアキャラ」らしく、俺を見るとやけにはしゃぐ。
素手でプリンを握りつぶさないだけ、今日はまだましだ。
義母からスプーンを受け取り、子ども椅子の横に座って食べさせる。口に入れる部分が平らで、柄に独特な角度がついた銀色のスプーン。餌付けする親鳥みたい。
「…会う約束、してて。ガッコの、草薙先生と」
弟の汚れた口元を見つめながら、少しおずおずと打ち明ける。
草薙に言われたことを、俺は馬鹿正直に守っていた。行き先、誰と会うか。帰る時間をおうちの人に伝えること。
「眼鏡の方の先生ね。お勉強?」
テーブルを拭く手を止めて、義母は俺を見る。
「…ではない、です」
またも馬鹿正直な俺。つい答えてしまう。良心のカシャクってやつのせいだ。
「遅くなるようなら連絡します」
「夏休みにまで…。薫さんの先生、いい先生ね」
現国の満点は両親にも伝えた。父親はちょっと泣いて、答案を仏壇に供えた。その日の夕食はお赤飯になりそうだったが、気恥ずかしかったので普通の食事にしてもらった。
“薫さんの先生”。
ごめんなさいお母さん。と、弟。ついでに父親も。
百点を取ったらやらせてくれると先生が答えたから、俺は一生のうちで二度とないような点数を取れた。
それが単純に今ここにある事実だ。
俺自身が本気にとらえていなかったとは言え、それから草薙の真意がどうだったとしても。
俺は弟の頭をがしがしと雑に撫でると、いってきますと言って立ち上がる。
「気をつけてね」
義母の声かけすら、俺の罪悪感に追いうちをかける。
外は晴れていて、暑かった。夕方にさしかかるという時刻だがまだ日は高い。
足元のふわふわした感覚は、あの日テストが返ってきたときからずっと続いている。
夏休み。
だが正直なところ、ふわふわしてばかりもいられなかった。
予備校にまともに通うようになったし、参考書の選び方なんてわからないからまた原田を呼びつけた。山内は勝手について来た。そんな山内も、かなり真面目に受験勉強をしているようだった。
それから、学校の課外授業。地元の図書館の自習室、家でも勉強。
忙しさにかまけて草薙のことを忘れられたらいい。
俺の勉強する理由は、そうやってまたしても不純なのだった。
時間よりもかなり早く着いて、その辺の自販機で買ったスポーツドリンクを飲み干す。喉がやけに乾く。
ポケットに携帯電話と財布だけ突っ込んで出て来た。
足元にはビーチサンダル。
てのひらをチノパンに何度となくこすりつける。
本気にしていないなら、待ち合わせ場所に来なければいい。断固として拒否すれば良い。
それをしない俺は、ずるい。
約束だから、というのなら即ち、草薙は俺に対して何の特別な感情も抱いていないということだ。
ただの義務。教師のお仕事の時間外延長。
それでも。
その優しさに、義務感につけ込んででも、と思った。
欲しい。最後に、一度だけ。
「嶋田くん」
来た。
顔を上げ、振り向く。聞き間違いようのない、涼やかな声。
何で?
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