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シーツに投げ出された手と手。
触れそうで、触れない。触れられない。
天井には、蛍光灯の他にファンが付いていて、だが回転はしていない。
白が基調の室内はランプカバーひとつ取っても清潔だ。最近新しくできたホテルなのだろうか。
来たときにはまったく気に留めなかったことが、今になって目に入る。
瞬きの音が聞こえそうなくらい静かだ。
体は疲れていて、だがどこか軽い。空洞になったような。
まぶたを閉じる。
義務感で「やった」のだとしても、人形ではないのだから何かを思うことはあるだろうし、体の感覚だってあるだろう。
さっきまでの時間は、ただそれだけのことだ。
それでも、俺はうれしかったけど。少しの間だけでも先生と2人きりでいられて。
だからこそ、言わなきゃ。
「…もう困らせないから」
ベッドの上で、かぎりなく平行に近い距離で体を仰向けに横たえている。
「もう俺のこと探さなくて、いいから。もう変なこともしないし、勉強もするし…もう本も貸してくれなくていい」
もう終わりにする。
俺と同じように天井をぼんやり眺めていた草薙は、俺の言葉が終わるとこちらを見た。
驚きと揺らぎがその目の中にある。
「…待って」
授業中かと思うような、鋭い声で言った。
「待って。ちゃんと話そう」
素っ裸で立ち上がると、備え付けの部屋着のような物を棚から出して着る。それから、散らばった服を拾い集めて畳む。
俺はつられて起き上がった。だが動く気にはならない。
「風邪ひいちゃうから、君も何か着て」
いつもの調子にもどっている。
もう、この時間が終わりかけていることを否応なく知らされる。
「…まだ着たくない」
まだ暑いし、べたべたするし。
「汗をかいたままだと冷えるよ」
しかたなくベッドカバーを頭からすっぽりかぶって体に巻きつける。
「カーテンを開けようか」
窓の外は駐車場やこぎれいなアパートで、基本的に灰色だ。風光明媚でも何でもない、現実。
ここを出たらもう、いち教師といち生徒だ。大人と子ども。社会人と高校生。
ベッドの端に並んで腰かける。
目の毒だ、と言って草薙は手を伸ばして俺の胸元のシーツをかき合せる。俺は女じゃないからどうでもいいのに。
それからペットボトルを手渡される。
「どこから話せばいいのかな」
話って何。ちゃんと話すって?
「君が、その…去年の冬、2年生のとき僕にしたこと」
少しうつむいて、唇に指先を当てた。
俺のを舐めてしゃぶった唇。苦しそうに声を漏らした唇。
俺は焦って目をそらす。
「とんでもなく悪質ないやがらせだと思った。嫌われているんだって」
飲もうとしてななめに傾けたスイートレモンの中身が、ごぽっと音を立てる。
もうずいぶんと前に思えた。
あの頃は。特に嫌ってはいなかった。いや、どちらかと言えば嫌いだったかもしれない。どうでも良かった、と言うのが正しいだろうか。
少なくとも、好意を持っていたからそうしたのではなかった。
ただ、唇が紅かったから。
俺の内心を知ってか知らずか、草薙は続ける。
「でも、君と話をするのは楽しかった。君は嘘のない言葉を使うから」
「…嘘ならいっぱいついたけど」
その場しのぎの嘘。言いたくないことの代わりの嘘。
「嘘も君の心の一部だよ」
草薙は困ったように微笑する。
「君は扉を、開いたと思ったらすぐまた閉ざしてしまう。でもその扉の隙間から外の世界を見てる。きれいな瞳で」
不意にふふと笑って、意味がわからないな、と自嘲する。
うん、わからない。
ただ俺を見てくれていたのはわかった。そして良いにせよ悪いにせよ、何かを思ってくれていたのはわかった。
「僕はいつのまにか、そういう君から目が離せなくなった」
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