118人が本棚に入れています
本棚に追加
「…マゾなの? わざわざ面倒しょい込んで」
話にそぐわない単語だった。だが冗談で言ったのではなかった。マゾ、そうとしか思えない。
草薙は笑いもせず話を続ける。
「面倒なんかじゃないよ」
「…好きなの嫌いなの。俺のこと」
まどろっこしさに耐えかねて、つい口をついて出た。
「君は生徒で僕は教師だ」
「…知ってる」
知っている。きっと誰よりも。
聞きたいのはだから、そのお決まりのフレーズじゃない。
「君はまだ受験するか決めかねているようだけれど、どちらにせよ学生の本分は勉強だから…」
答えになっていない。
「それに僕は副担任として、生徒全員を平等に指導しなきゃならない」
それも知っている。
だから違うんだって。
「だめ、答えるまで帰さない。嫌いなら嫌いだって、」
「嫌いなはず、ないじゃないか」
ささやくような語尾が少しふるえたように思えた。
「だから…僕は好きでもない相手とこんなことしない」
ない、しないって。
「どっちなんだよ」
意味がとれない。
草薙は眉間に人差し指を当てて顔をうつむける。
「授業、聞いてなかった? 二重否定は肯定の意味だと教えただろう?」
ここで今、授業の話?
「…何を肯定してんの?」
溜め息を吐きながら首を横に振る。さっきから挙動不審だ。ただ答えればいいだけなのに。
「…だから、その…」
顎を上げた。
「す…」
唇のかたちが、動く。
す?
「…すきだよ」
その言葉は、目の前の何もない空間にぽろりとこぼれた。
「僕は嶋田薫くんが好きだ」
かぶったシーツが、頭からばさりと落ちる。
俺は顔を上げて窓の外を見る。だが何も認識できない。
それから、右側にいる草薙をゆっくりと振り返る。
両膝の上で手を握り、その拳を見つめている。目元が染まって、瞬きをやけに何度もする。
と思ったら急に俺を見た。
まともに目が合って、お互いが勢いよく目をそらした。
俺は今まで何も言っていなかった。
いろんなことは、した。だがその言葉だけは、まだ何も。俺は。
「俺は」
シーツを再び頭からかぶる。
「俺も…」
意識したら、顔が、てのひらが、熱い。
「俺も…すき。先生のこと」
たった2文字が。
こんなにも気恥ずかしくて、こんなにも意味を持つだなんて。今まで知らなかった。たった2文字が。
「先生が『先生』じゃなくてもたぶん、好きになったけど…俺は、先生をしてる先生が好き」
何言ってんのかよくわかんねえ。
でもそのままの意味だった。
草薙が先生じゃなかったら、って俺は思ったことがない。
草薙はきょとんとした表情で俺の言葉を聞いていた。
それから急激に、顔から首、胸元まで真っ赤になった。
「君は、極端過ぎる…!」
両手で顔を覆う。
「無視したり乱暴なことをしたと思ったら、急に素直になったり優しくなって…僕を振り回して!」
今度は俺がきょとんとする番だった。
そんなつもりはなかったし、草薙が振り回されているのはあくまでマグロとかに命じられてしかたなく、だと思っていた。
でも。
気が付くと傍らにいて、いつもどこからともなく現れたっていうのは、そういうことなのかもしれなかった。俺を見て、追いかけてきたということ。
少し意地の悪い気持ちで、俺は草薙が落ち着くのを待つ。ペットボトルの中身を飲んだりしつつ。
やがて、まだ耳は紅いものの回復したらしく、こちらを向いた。眼鏡を指先で掛け直す。
俺は聞きたかったことをたずねる。
「また本、貸してくれる?」
「もちろん。いくらでも」
最初のコメントを投稿しよう!