先生と冬の夜

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「…なんだか、ひさしぶりだね」 「…うん」 3学期。 自由登校期間に入っていた。週に一度、登校日が設けられている。 せわしない日々だ。ほぼ毎日、どこかの大学の入学試験が入っている。ゆっくり話すタイミングも時間もなくなっていた。 彼は黒のダウンコートを着ている。上着も着ないで飛び出して来たのでなくて良かった。 インナーの薄手のシャツがうすら寒そうだったので、つい、コートの襟をかき合わせる。 整髪剤の匂いと、歩いて来たからか汗の匂いとが、僕を包んですぐ消える。 我慢? 少なくとも僕はそうだ。 懐かしさすら感じる。ほんの1、2ヶ月間離れていただけで。 「原田は、行かなくていいのに毎日行ってるみたい」 推薦入試で合格が決まった原田くんは、ほぼ毎日登校している。なにかの検定試験の勉強を、こっそりしているようだった。 「山内は…行方不明」 少し笑う。 「欠席の連絡は来てるよ」 登校日にも顔を出さない生徒には、もうずいぶん会っていない。予備校や図書館の自習室に通いつめたり、家庭教師を付けたり。それぞれの人生を踏み出すための、それぞれのラストスパートだ。 「…ともだちに、なったんだねえ」 2年生の頃、嶋田くんと山内くんは見た目もあいまってクラスの皆から多少遠巻きにされていた。 そこに原田くんが(内心僕も驚いたのだけれど)加わって、たとえるならば「語彙が増えた」。ほかのクラスメイトと、ときおり言葉を交わすようにもなった。 原田くんにリレーの練習に引っ張られていく、嶋田くんの背中を丸めた後ろ姿を思い出す。 「7日だったよね?」 「うん」 「ここまできたらもう、いちばん気をつけるのは当日の体調だね」 頑張ってきたのはよく知っていた。 「…それは大丈夫。お母さんが加湿器とか、生姜入りはちみつレモンとか、用意してくれるから」 「…そう」 「父親は夜中部屋に入って来て、ずれた毛布を掛け直すし。子どもじゃねえのに」 「…そう」 「過保護だから」 そう、ともう一度言う。 彼の家族。 お父さん、お母さん、弟、亡くなったお母さん。 意地悪な継母、とか、半分しか血のつながらない兄と反目する弟、だったらわかりやすいお話だった。まさに三文小説以下の。 けれど現実は、そういうふうにはできていない。 僕はすべてを知っているわけではないけれど、良い家族だと思う。 嶋田くんは新しい家族のかたちに、無理に自分をはめ込もうとしていた。 それが、いいことだと思って。中学生なりに適応しようとした結果。 古本市に行ったとき彼は、ラーメンが食べたい、ではなく正確には、ラーメンなら食べられると思う、と言ったのだった。 白いごはんにおみそ汁、おかずとおひたしと漬け物、といったような食事は食べられないと言う。 吐きそうになる、と。、と。 僕はそれを聞いて、背中をさすってやることしかできなかった。 彼は最近になって、ごくまれに、亡くなったお母さん(彼は『死んだ方のお母さん』という呼び方をする)の話をしてくれるようになった。 ごつくはないんだけど、男みたいな顔。こういう男っているよなーみたいな、顔。 などと、いつもの、一部を切り取ってそこを拡大鏡で見るみたいな調子で話す。 そういうとき、あの瞳がいっそう夢見心地になって、今にもどこかへいってしまいそうになる。 授業中に窓の外をながめていたときと同じ瞳。 儚くて、優しげ。けれど、すぐに壊れちゃいそうで危うい。そして、その危うさに見入ってしまいそうになるくらい、きれいだった。 この子は孤独を感じているんだなとわかった。孤独な状態におかれているのではなくても孤独を感じているのだと、わかってしまった。 「お母さんの自作の応援歌は断ったけど、さすがに」 「ふふ、愉快なお母様だね」 食べられる物を、少しずつ食べていければ、と思う。彼の話したいことに、耳を傾けて。話したくないことに関しては、待って、分かち合いたい。僕がいっしょに、となりで。
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