先生と冬の夜

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この前嶋田くんと最後に会ったのは12月。冬休みに入ってすぐだった。 受験シーズンだから、しばらく学校以外で会うのは控えよう。そう伝えた。 僕は彼の頬を両のてのひらでがっちりとホールドして、いいね? って念を押した。 みさかいなくキスをされた後。 まだ、余韻が残っていた。頬骨の上の熱がとれない。 クリスマスの飾り付けとBGMで浮かれた書店だった。児童書コーナーの、棚と棚のあいだ。夜で、親子連れの姿はなかった。 でもさあ、…溜まっちゃうじゃん。その方が良くないんじゃねえの。 僕はしかめ面になる。 人間はケモノとは違うんだからねっ。 ぎゅむ、と鼻をつまんで言ってやった。 …いいね? 嶋田くんは、わかった、と答えた。 どこも受からなかったら、もう会わないとか言い出しかねないね、先生は。責任を取るとか言って学校辞めちゃうかも。 …よくわかっているじゃないか。 彼は弟のために絵本を1冊買った。 少し早いけどクリスマスプレゼント。 そう言って、封をしていない、手の上におさまるほどの小さな紙袋を取り出す。一応、クリスマスらしい模様が印刷されている。 嶋田くんは、親指と人差し指で中身をつまんで取り出した。 学業成就と書いたお守り。 銀色の紐に紺色の布袋がぶら下がっている。 実家近くの神社のだよ。有名どころではないけれど、僕も持っていた。 …2組の、ほかのやつらにも配る? クリスマスツリーの電飾が、お守りの向こう側でぼやける。 駅前のロータリー。植栽を囲むレンガに並んで腰を下ろした。もう帰らなきゃいけない、帰さなきゃならない時刻に差し掛かっていたにもかかわらず。 なんかさあ、お土産。クラスの1人ひとりに配ってたじゃん。ちっちゃい饅頭みたいなやつ。 根に持ってるの…? お饅頭。 …別に。 前にも話したけど、あれは僕がわざわざ買ったわけじゃなく、出張で先方が持たせてくれたんだよ。1人で食べるには多いし、職員室で配るには足りなかったから…ね? だからそんな顔しないで。 まるで浮気の言い訳だ、ただのお饅頭が。 彼の横顔がふてくされている。僕を決して見ずに、唇を尖らせている。 別に、(ちげ)えし。聞いてねえし。 やれやれ、だ。 僕は言いづらいことを、おずおずと話し出す。 …もちろん気持ちは、クラスのみんながきちんと実力を発揮して、受かって欲しいって思って、祈っているよ。もちろん。 もちろん、を2回言ってしまった。 嶋田くんは、続く言葉を辛抱強く待っている。 僕たちはしばらくのあいだ、ゆっくり話す時間もなくなる。 …とくべつ。 目を伏せて、まるで悪いことをこっそり打ち明けるみたいに、その言葉を唇にのせた。 目を伏せていたから、彼がどんな表情をしたかはわからない。 嶋田くんは特別だから。 クリスマス前の雑踏のざわめきの中。白い息とともに吐き出してしまったら、もうその言葉は消えない。 …もう1回、言って?  僕の耳たぶにもうちょっとで唇が触れそうな距離で、それはとびきり甘ったるく響いた。響いてしまった。 空気の冷たさのせいで、よけいに顔が熱い。 受験生クラスの副担任、真面目で堅物の草薙先生がたった1人だけを特別扱いするなんて。考えてみれば、とびきり悪いことだ。 …い、言わない…。 言って。 離れて。人がっ…たくさん通るよ。 誰も見てねえよ。 でも、だからって…。 言えよ。 ………。 「…帰ろうか」 「部屋に戻るときも、窓から入るの?」 「…まあそうなるね」 「大丈夫なのかよ」 寮の前までタクシーを呼び、嶋田くんを乗せる。終電に高校生を乗せたくなかった。 「…じゃあね。風邪ひかないようにね」 「うん」 僕は車が見えなくなるまで、ゆるく手を振って見送った。
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