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「なんとか無事に進路も決まりました。一時はどうなるかと私どももかなり気を揉んでおりましたが…。本当に草薙先生のお陰です」
お母さんはすでに泣きそうな顔をしている。お父さんは何度も頭を下げる。
息子のためにご苦労されてきたのだろうと、改めて思う。
「いいえ、僕はなにも。頑張ったのは嶋田くん本人ですから。受験勉強も…それ以外も」
クラスメイトにまぎれて遠くにいる息子に、お母さんはカメラを向ける。
「また背が伸びたんじゃない?」
「…髪型のせいじゃないか?」
お母さんはお父さんにしきりと話しかけている。僕は微笑む。
それから、僕はまなざしを今日はじめて彼に、向けた。
彩りなんて呼べる程度じゃなかった。
僕の教師としてのはじめての生活に、生々しくも鮮やかに色づいた彼の、断片。
おぼえているのは、雨に混じった血の匂い。
それから、夏の木漏れ日の葉っぱの影の揺らぎ。ページをめくる、小さくも空気を切り裂くような鋭い音。
話しかけるつもりはなかった。今日は、僕が出しゃばる日ではない。
今日は生徒と先生であるべきだったし、そうでありたかった。
それは隔てることだけではなかったはずだ。その立場、関係であっても、大切な記憶はたくさんあるはずだ。
だから彼と言葉を交わすことができたのは、時間のはざまが起こしたほんの偶然だった。
風に舞い上がりながら飛んでいく、誰かが持っていたのだろう式次第の紙。僕はそれを追いかけて、人の波から外れた。
本校舎の脇、寄付金で建てられたという武道場は少し奥に引っ込んでいる。そこまでは誰も来ないらしく、急に静かになる。
紙を拾い上げて顔を上げた。
気づいたのは同時だったと思う。
「…先生」
「嶋田くん…」
武道場の出入り口前の階段に座っている、知り過ぎた制服姿。
彼は、写真は嫌い、と短く言った。
僕の前まで来て、証書を入れる丸筒を首の横にてん、てん、と当てながら手持ち無沙汰そうだ。
「今日は、きちんと着ているね」
こころもち、髪も整えている。
着崩した制服をやきもきしつつ遠くからながめることも、かかとを踏んで歩く独特のぺたぺたという足音を聞くことも、もう二度とない。
彼の胸元に手を伸ばす。
感傷を払うように、ネクタイと、胸につけたコサージュもついでにまっすぐに直す。
「写真撮影の前に直すべきだったね」
彼は僕の指先を見たまま、なにも言わない。
「卒業おめでとう」
「…うん」
かすかに鳴る風は、もう春の空気をはらんでいる。
「今日は泣かないの?」
「…そうやって、僕が泣き虫みたいな言い方をするのはやめてほしいな。あのときは、君が意地悪したからだ」
窓際の後ろから2番目の席に、君は座っていた。
窓は開いていて、君は退屈そうにカーテンがはためくのを目で追っている。微風で髪がさわさわと流れる。
机からはみ出た長い足をもてあまして、上履きはほとんど脱げかかっている。
「大学に行っても、頑張ってね」
嶋田くんは、本人いわく「無理ゲー」だった第一志望には残念ながら不合格だったものの、見事に第2志望の大学の文学部に合格した。
ひかえめに見てもよくやったと思う。なんと言っても準備期間が短かったし、彼の生活態度からして、勉強ということをまともにするのもはじめてだったはずだ。
今の君ならやっていける。そう思った。
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