卒業式

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「薫ー、行かんの?」 向こうから山内くんの声。クラスの皆でカラオケに行く予定だとさっき聞いた。原田くんもいる。 「先行ってるぜー」 引き止めるつもりはなかった。 「行っておいで」 「…先生」 ふわりと、その髪が僕のテリトリーに、なんのまえぶれもなく入って来る。 それから、柔らかくて少し湿った、唇の感触。 僕は驚きのあまり目を丸くして、動きを止める。 いちばん最初のときと同じように。 けれどあのときと違うのは、春みたいな温かさを感じられたことだ。 「最後に、学校でしたかった」 そっと乗せられた唇はすぐに離れた。 まつ毛にまつ毛が触れそうな距離で、僕に秘密をうちあける。 僕のどこか内奥に触れるためだけの、甘い声。 少し目を伏せて僕を見つめている。 「…最後まで…もう」 僕は眼鏡のブリッジに指を当てて力なく呻く。 遅れて、顔が赤くなるのがわかる。 最後。 考えないようにしていた言葉。 嶋田くんは体を引く。 あらかじめわかっていた別れだ。出会った当初から。いや、出会う前から。 「…待ってるから」 嶋田くんは、ゆっくりとまぶしそうに目を細める。 「僕はいつでもここで、待ってるから」 もしも君が迷ったら、僕はここにいるから。 だから、さよならは言わない。 「…忘れない」 卒業証書の筒をぞんざいに肩に乗せるように当てた。僕をまっすぐに見て、そう言った。 彼はすぐに友達の方へと踵を返す。 唇の触れた部分に確かな熱。 遅えよ。 お前写真入ってねえかんな。 話しかけられている声が、じょじょに遠くなっていく。 後ろ姿はほかの生徒にまぎれて、すぐに見えなくなった。 明日からは1、2年生の授業が再開され、通常の日程に戻る。生徒たちが帰ったのを確認して、今度は撤収作業を行なった。 職員室で軽く慰労会のようなことをする。仕出しのオードブルとソフトドリンク。アルコールはなしだ。進路が未定の卒業生もまだいる。送別会を兼ねることになるだろう打ち上げはまだ先だ。 先生方とひととおり言葉を交わす。 来年はいよいよ担任持っちゃう? 冗談を言われる。僕なんかまだまだですよ、という答えは本音だった。 そういえば真口先生だけでなく、僕まで生徒たちから花束と色紙の寄せ書きをもらった。 さっきまで動き回っていたから、目を通す暇もなかった。 改めて色紙を取り出してみる。 はやくけっこんしろよ なぎぼう、クラス会には来て下さい 大学で彼氏を見つけます 真ん中に描かれたイラストは、文芸部の大塚さん作だ。可愛らしいメガネキャラに仕立てられた僕が、黒板の前にちまっと立っている。 順に読んでいくと、1人ひとりの顔が思い浮かぶ。授業を受けているときの顔。進路について相談するときの神妙な、あるいは照れた表情。 具体的に細かく書かれた、将来の夢。体育祭の思い出。2年間ありがとうございましたから始まる、きちんとしたひとまとまりの文章。 色紙のざらついた表面をたどる指が、止まる。 読む前に、字で、それが誰のものかわかる。少し縦に長い字で、筆圧はそれほど高くない。 学校では教えてくれないことも教えてくれて、ありがとうございました。くさなぎ先生のことが大好きです。 嶋田薫 彼が書いてくるとしたら凝った内容ではないだろう、素っ気ないに違いないと予想はしていた。 けれどこれは。 僕は職員室にいることを忘れて、しばし瞬きをするのさえ忘れそうになる。 ほかの誰かが読んでも、無個性なメッセージとしか思わないだろう。なんの思い入れもない、適当な文章だと。ひらがなが多いのもあいまって。 好き、愛してる、LOVEなどと書いている生徒はほかにもいたから、まるで目立たない。生徒が教師に贈る、ありがちな文句だ。 けれどそこに、嘘はひとつもなかった。 そしてそのことがわかるのは、嶋田くんと僕の2人だけだった。 僕は笑って、ちょっと泣く。それからまた笑う。 これからのこと。 大学に進んで、数年後。十数年後。もっと先には。 嶋田くんがどんな大学生活を送って、どんな仕事に就いてどんな大人になるのか。僕は教師を続けられているのか。それは誰にもわからない。 けれど。 瞬間の積み重ねたち、それをもしも青い春と呼ぶのなら。 その瞬間に同じものを見て、言葉を交わし、同じことを感じていたのだとしたら。 それで充分だった。 その記憶を抱いているだけで、この先も続く長い道を歩いていけると思えた。 きれいな名前ときれいな瞳を持った、僕の最初の生徒だ。 僕は確かに、君に恋をした。 忘れない。
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