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epilogue
びっしりと並んだ背表紙の手前、何にもない空間に浮かぶ、細くて白い人差し指。
草薙は本棚を端から端まで視線でたどりながら、話をしている。歴史の勉強には、あまりならないかな、とか何とか。
栄養不足の卵みたいな、相変わらず白い顔。
「…聞いてる?」
本棚と本棚の間。914という数字のついた棚に草薙は貼りついていて、俺はその真後ろでいわゆるヤンキー座りをしている。待っているわけでもない。
「…聞いてない」
草薙は振り返って俺を見て、何も言わずにまた、本棚に向き直る。
俺に貸している本の話をしていたらしい。欧州の昔の貴族社会が舞台の喜劇だ。
短編集だから勉強の合間に読むのにちょうど良いよ、という程度の事前情報しか、この男はよこさない。
夏休み。
俺は現国以外の勉強もし始めた。て言うか、やらないと。本格的な受験勉強ってやつ。
でも俺の夏休みの思い出はお勉強じゃない。(俺が受験生だからという理由で)日帰りだった家族旅行でもないし、山内たちと行った夏祭りでもなかった。
「…結局、先生のいちばん好きな本って何なの」
「…秘密」
「何それ」
「今度貸すよ」
「今まで借りた中にはないってこと?」
草薙は、ふふ、とおかしそうに含み笑いをする。だが何も言わない。
何度も何度も。
視線でたどってしまう。
男子小学生みたいにつやつやの頭。造り物みたいな耳。細い首。
それから。
うっすらと筋肉が乗った肩。白過ぎるなめらかな背中。引き締まった腰に続く、ちっちゃな尻。
好きだと言われたり言ったりしても、それですべてがおさまるわけじゃない。
むしろもっと、もっとと際限がなくなる。溺れるみたいに。たがが外れる。触れていなければ不安で、触れていたいと常に願う。
たった一晩体を重ねただけでこのざまだ。
草薙とはあの後も、夏休み中に数回会った。当然のように、昼間だけの短い逢瀬。
ファミレス。図書館。書店。
学校で開かれた「夏期特別講座」で会った回数が、いちばん多かったわけだが。
いっしょに出かけるのに、いちいち理由をつける。
参考書選びなら手伝えるから。僕も読んでおきたい本があるからファミレスに行こう。受験勉強の息抜きにね。などなど。
今はスラックスで隠された、かたちの良いふくらはぎ。
思い余って俺が噛んだ足の親指。そこについた歯型の跡までおぼえている。
「…いっつもさ、俺からしてるじゃん」
「…何を?」
手に取った資料を、草薙はうつむいてぱらぱらとめくっている。夢中になっている。
「だから、先生の方からして欲しい。今」
「…何の話?」
「…キス」
指が中空に浮かんだまま、止まる。
鈍感な奴。それとも、わざと?
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