epilogue

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草薙はいきおいよく振り返る。人差し指を1本、立てたまま。 「今? ここで?」 「今。ここで」 「………何で⁉」 「…でかい声出すなよ」 「な…何そこだけまともなこと言ってるの、でかい声だって出るよ!」 驚いて必死で、焦っている。 俺は後頭部をがしがしと掻く。 あーめんどくせえ。 俺はたださあ…。 「何でって…。して欲しいから」 面倒になって、頬づえをついてそっぽを向く。 「いちいち理由が必要なわけ。先生と俺っていちおう…、」 続きはぼそっとつぶやいた。 「…両思い、なんじゃねーの…?」 さっきまでうるさかったのが、急に何もしゃべらなくなる。 目だけ動かしてちらりと見る。 みるみるうちに、草薙の耳が頬が、染まっていく。 「本当に君はもう…」 しゅんとして、伏せたまぶたも、染まって薄く色づいている。 それから、なぜか深呼吸をした。やれやれと言って俺の前に膝をついて座る。 「…知ってる? 『ねだる』と『ゆする』って同じ漢字なんだ。強欲のごうに、請求のせい」 「ふうん…よくわかんないけど」 ねだるなんて、俺はそんなかわいらしい愛玩動物ではないから、じゃあ恐喝犯か? つと、指が伸びてくる。 俺の額の、おそらく産毛を指の腹で押しつけるように撫でる。 窓の外、9月のまだ暑い日差しを目で追いながら、俺は草薙の顔が見られない。 「ほら…こっち向いて」 とても優しい声だ。 俺が頬づえをついている手を、そっと包んでゆっくりと外す。 秋に都心で開かれる古書市ってやつに、いっしょに行く約束はした。 「高校生が喜んで行く場所とは思えないけど…行きたいのなら」と言っていた。 行きたいに決まっている。 誰かといっしょに行くのは初めてだとも言った。 「…いい?」 そうゆうのは、いちいち言わなくていいんだよ。恥ずかしいだろうが。 「す、するよ…」 人が来ちゃうぜ、早くしないと。 あきれたはずのため息が、ただの甘い吐息みたいに耳をくすぐる。気配が、近付いてくる。 俺はようやく草薙の方に顔を向け、目を閉じる。やっぱり図書室の匂いがする。 先生が先生でいるのが好きで、でも、先生が先生じゃなくなりそうになる瞬間も好きだった。 唇の端っこをかすめるように触れ、すぐに離れた。 ゆっくりと目を開ける。 黒い瞳と目が合う。近い。吸い込まれそうになる。 少し笑ったように見えた。 ………えっ? ふいうち。 もう一度、唇を寄せてきた。 何で。学校の中なのに。 図書室(ここ)の扉はぶっ壊したまま開けっ放しで、もうすぐ次の授業が始まるってのに。 いつものこの男と同じように目をまん丸くして、さっきこの男が思っていたに違いないことが、頭の中をぐるぐる巡る。 奥には入ってこない。あくまで柔らかくて、味はない。 約5秒間。 やがて草薙は、俺の胸にてのひらを添えて離れる。 「…下手くそ」 できるだけ不機嫌な声で言ってやる。だがあまり不機嫌そうには響かない。 草薙は何事もなかったかのように、膝の上で本を開く。上目遣いで俺を見て、わずかだけ口角をきゅっと上げた。 何だか憎たらしい。 やろうかと思う。だが気が抜けて、床にぺたりと腰を下ろす。 正直なところ、すでに体じゅうをいっぱいにさせられていた。 柔らかさ、甘さ、ほにゃっとした笑い顔、唇の心地良さ。 そんなものたちで、単純に満たされている。 となりに移動して、本棚に寄りかかって足を伸ばす。 「もうちょっとここにいようよ」 眼鏡を指先で上げた。壁の時計を見た。 この後、授業が入っていると言っていた。 「いいよ。予鈴が鳴るまでね」 案外あっさりと肯定されて、俺はまた些細なことで満ち足りてしまう。 「…何読んでんの」 「ん? 1年生の課題の…」 あまり時間がないのは知っている。 だからそれで充分だった。 肩口に、こっそり顔をすり寄せる。図書室の匂い。
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