p.s. 再び春

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これ読んで、とも、どういう内容だよとも、何ひとつ言わずに差し出してくる。いつも。 三冊目。 高校二年の冬。 軽過ぎて吹けば飛びそうな足音が近付いてくる。 本棚と本棚の隙間を、まっすぐ進んだり戻ったり、直角に曲がったりして。 図書室のいちばん奥、窓に沿った低い棚の上に俺は寝転がっていた。 仰向けになったりうつ伏せになったりしながら、少し厚みのある文庫本を読んでいる。 平等の時代とは言われますが、やっぱり威厳はあるようにみせるのがいいですよ。 マグロにそう怒られているのを、この前見かけた。 俺のせいかもしれない。 鼻で笑う。俺なんかに構うから。 外国の昔の短編がいくつか載っている。 その時代からみた未来について書かれた小説で、だから今となっては怪しげな理論や、やたらと大掛かりな機械が出てくる。 …提出、してないよ。 何を? 息が上がっている。小柄なスーツ姿、ひょろメガネ。 やっと捕まえた、ってお決まりの台詞。 今日はずっとここにいた。 だから授業にはひとつも出席していない。 きょとんとした顔をした。 あーあ、そういう顔をするから舐められるんだよ、俺みたいなくだらない奴に。 禅問答みたいだねと言った。意味がわからないからそこは無視する。 再来月の校外学習の同意書と…先々週の早退について、親御さんのサイン。それから、そういう場所に上履きのまま乗っちゃだめ。 はあい、とまとめて「いいお返事」を返しながら起き上がる。聞いちゃいなかった。 よいしょ、とか言って草薙は自分も棚の上に座る。座んのかよ。 タブレット端末に、つぶつぶと入力している。 ウェブ上の書類でも、結局会って催促しなきゃいけないんだよね。 そう言ってふにゃりと笑った。 怒ってんじゃ、ねえの。 …読んだ? まだ全部は読んでない。 感想は? …人形の話が、いい。なんかきれいだから。 …やっぱり。君はそれが好きだと思った。 眼鏡を人差し指で上げて、ひっそりと微笑む。 わかったような顔をする。 あと、先のことは考えても計画しても、思うとおりにはならないってこと。 …そうだねえ。 端末を裏返して脇に置くと、足をぶらぶらさせた。床に足着いてねえのかよ、ちびっ子。 もうすぐ三年生だね。 べつに…関係ねえし。 片足を棚の上に上げる。膝に腕と顎を乗っける。 君が進級できることも決まったし。ね? 関係ねえし…。 ね? って何だよ。ねっ、て。 天井から吊り下がった電球は点いているのに、図書室は薄暗い。明かりの届かない場所の影が際立つ。 この窓辺だけは、日が当たって光があふれている。 顔を動かすのが億劫で、横目で見遣る。 ここ、暑いね。入って来たときは寒いと思ったけど。 白い頬が、ぽおっと染まっている。 それは傍らの石油ストーブのせいだ。 柵に囲われて、丸い窓のような部分に、ちらちらと青い炎が映っている。 だが俺は何も教えてやらない。 俺のとなりに、勝手に寄って来たのだから。 何かしゃべっている。本の内容について。陰キャ風のくせに、よく動く紅い唇。 嶋田薫くん…きれいな名前だね。 自分の唇を指でなぞってみる。縁がざらついていて、温いだけだ。 …先生。 気付いたら勝手に呼びかけていた。話を遮ってまで。 草薙の細っこい、折ろうとすれば折れそうな腕と体の間に、俺は手をつく。古い本棚の、逆剥けた表面がてのひらに浅く刺さる。 …なあに? 澄んだ声が、近くなる。 もうしゃべんなくていいよ。 ただの男の唇だ。無防備で無頓着な。 それが俺の目の前にあって、俺の唇の近くにある。 ただ、それだけのこと。 十七歳だった。 衝動と欲望まみれの。 俺は図書室で先生にキスをする。 Fin
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