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就職氷河期真っ只中の西暦2000年に大学を卒業し、いきなり就職難に遭って挫折し、何回か転職して主に非正規雇用を余儀なくされ、年収300万を超えたことがなく、今や44歳と言うのに年収200万そこそこの非正規労働者として工場で働く溝口春馬。
彼は低所得者の為に結婚できず、女性と付き合った事すらない。これはロスジェネ世代では決して珍しい事ではない。若者の層でもそういうのが増えている。少子高齢化社会の貧しき日本の象徴的存在の一人。だが、彼は結構イケメンなので言い寄る女は、今までにいたにはいたんだが、矢張り低所得者にはいい女は寄って来ず、どれも好きになれないので付き合うには至らなかった。彼は世間体を良くしようと妥協して結婚出来るような俗な男ではなかったのだ。
而して今日も今日とてブラック企業で何時間もの残業を強いられ、ピンハネされて帰ってゆく。帰宅ラッシュが過ぎて空いている車両内。置いてけぼりを食った感じ。クロスシートからよろよろ立ち上がる春馬。いつも降りる駅で停車寸前に急ブレーキがかかった。
「ギギ―!」「うわあ!」ドアに向かって歩いていた春馬は、ロングシートに座る女の横を通り過ぎようとした時、耳を劈くばかりの金属的轟音と共に悲鳴を上げながらよろめいた。間髪を容れず重心が後ろにかかり、疲労し切った脚が脆くも崩れ、女の合わさった太腿の上に顔が勢いよく俯せになりながら体全体が倒れた。
「きゃー!」女の絹を裂くような悲鳴に驚いた春馬は、女が太腿の上に添えていた繊手を右手で思わず押さえつけ、太腿も相俟って柔らかい感触が弾力となって飛び起き、女の前に棒立ちになった。
マスクをしているので顔は目元しか見えないが、ノースリーブのカットソーにデニムのミニスカートを履いた、そのタイトな姿はセンシュアルで、とてもイケてる感じだ。
「あの、すいません!」と春馬が真っ赤になりながら兎にも角にも謝ると、女は平然と笑いながら、「しょうがないですよ。この場合」と言った。
春馬は直ぐに降りないといけないと焦りながらお礼のお辞儀をするように一揖して急ぎ足で車両を降りた。
線路に飛び込み自殺を図った男は、春馬と同じくアラフォーだった。彼を駅員たちが保護して若干時間は遅れたものの無事、電車は次の駅へと発車した。その時、女は床に落ちていたセカンドバッグの中を確かめ、しめしめとにやついていた。
春馬はプラットフォームの階段を降りて改札口を出てからも女の事と飛び込み自殺を図った男の事がごちゃ混ぜになって頭を支配し、車両の中の忘れ物に頭が回らなかった。
星を頂きながら夜道を歩き、自分のアパートに近づくにつれ、飛び込み自殺を図った男への同情は忘れ去り、女の事で頭が一杯になった。
ほんの一瞬ではあったが、若く而もイケてる女の生の太腿と手の感触を味わえて顔と手がまだ火照っているのを意識しながら春馬はもう純粋にその虜になっていた。だからアパートに帰ってからも綿のようにくたくたに疲れていたこともありセカンドバッグがない事に気づかなかった。
そんな風に、その晩も僅かな自由時間を何をするともなく過ごし、もう寝ようかという時に突然チャイムが鳴った。
こんな遅くに誰だ?徒でさえ訪問者が少ないのにびっくりして不審になった春馬は、恐る恐る玄関に行ってドアスコープを覗いてみるや頗る驚いた。
なんと、あの女が立っていたのだ。出で立ちで春馬は直ぐに分かったのだ。で、どういう訳だと疑問に思いながらも若く而もイケてる女の訪問に何かしら期待しない訳には行かなくなった春馬は、は~い!と上ずった声を上げてドアを開けると、「これはまた」と女を見るなり言ってから、「あっ!」と思わず声を上げた。
女が春馬のセカンドバッグを差し出したのだ。「あなた、慌ててらっしゃったから・・・」
「ああ、そう言えば、いやあ、助かりました」と春馬はやっとセカンドバッグを忘れてしまっていたことに気づいて有難く受け取った。「態々届けてくださって本当にありがとうございます。しかし、よく場所が分かりましたね」
「失礼ですけど、中身を確かめさせてもらったら財布の中にマイナンバーカードがありましたから」
「ああ、それで住所がお分かりになって・・・」
「そう・・・」
「はあ、全く助かりました。なんとお礼を言って良いか・・・」
「お礼ならねえ、あなた、お独り身でしょ」
「え、ええ」
「じゃあ、私と遊んでくださる?」
「えっ!?」
「一週間同棲コースからありますけど」
「はぁ?」
「ふふ、私、パパ活してるの」
「パパ活?」
「そう、ねえ、兎に角さあ、終電出ちゃったしさあ、一晩泊めてくれない?」と女は急にタメ口になって玄関内に入ろうとする素振りを見せた。
それに従って春馬は後退りした。お礼をしなければいけない立場な上、若くイケてる女に対する男の弱さだろう、料金云々の心配より期待感が勝った結果に違いなかった。その気色に、「そうそう、お礼をして貰わなくちゃ」と女は恩着せがましく言いながら玄関内に入り、後ろ手でドアを閉めてしまった。
「私、実は今晩、偶々お客が無くてね、ネットカフェに帰る積もりだったんだけど、ひょんなことから溝口さんと出会っちゃってお仕事に切り替えたって訳。さ、上がらして貰おうかしら」
「あ、ああぁ・・・」溝口が戸惑ってまごまごしている間に女はパンプスを脱いで上がり框に踏み入った。そのストッキングを履いた脚線美に見惚れてしまった春馬は、無論、何の魅力もない女が勝手に上がり込むなら話は別だが、追っ払うなぞ出来る筈がなく灯りの付いていない四畳半の寝室を通り越し、灯りの付いている六畳間の居間に請じた。すると、女はマスクを取って春馬に微笑みかけた。奇跡的と言おうか、今時、珍しく出っ歯ではない整った笑顔。その艶やかなことと言ったら男寡の黴臭い部屋に俄かに咲いた一輪の芳醇な花とでも形容すべきか・・・春馬は夢にまで見たことが実際に起きて正に夢の中にいるようだった。同時に若くてイケてる女にこの部屋がどう映るだろうと思うと、恥ずかしくなったし、どう持て成せばいいのか分からなくなった。そりゃそうだ、こんな降って湧いたような機会にフレキシブルに対応しろと言う方が無理というものだが、美貌と恩の強みを持つ女は、何処までも図々しく、「コーヒーでも淹れてくれない。それか、私が淹れても良いわよ。同棲生活を味あわせてあげるんだから、さ、キッチンは、キッチンは」と急かしながら居間を出て行こうとする。それに対し春馬は急いで台所に先回りしてインスタントコーヒーのある場所を教えた。で、その後、居間のテーブルをはさんでコーヒータイムと相成った。
「ど~お?恋人同士になれた気分は?」と女が問うた時、初心な中年男みたく春馬の顔は勃起した鬼頭のように生々しい赤色を呈して、いやあと照れ臭紛れに呟くだけだった。
「溝口さんって若々しいけど、マイナンバーカードでチェックしたら44なのね」
「え、ええ」
「だから約二回りも違う年の差カップル誕生ね」
「い、いや、カップルって・・・」
「だって、もうサービスは始まってるのよ」
「あっ、そのことだけど、一時間ごとにカウントするの?」
「何言ってるの、一時間の同棲なんてないわよ。最低でも一週間よ」
「え!ってことは少なくとも一週間もここにいるわけ?」
「そうよ、いや?」
「いや、いやと言うか、長すぎるとお金が嵩むと思って・・・」
「ズバリ言うけど、一週間同棲コースが20万、二週間同棲コースが35万、三週間同棲コースが40万、四週間同棲コースが45万、そして一ヶ月同棲コースが50万よ。段々お得になるでしょ、これら以外ないから」
「い、いや、困ったなあ・・・」
「何、困ってるの。優しくしてくれるなら私が何だってサービスしてあげるんだから安いもんじゃない、はい、前金」
女は春馬に手を差し出したのだった。なんという自信に満ちた高慢な強引な貪欲な遣り口。
結局、春馬は財布の中の一万円札を与え、それだけで帰ってくれとはとても言えなかったが、翌日、女に他の客の予約が入ったお陰で一日に短縮することが出来、計3万円の出費で済んだ。とは言え、普段、風俗に行く余裕すらない彼にとって相当な痛手だった。
幾ら女に飢えているとは言え、長年グラビアアイドルやAV女優の世話になって目が肥えているだけにそんじょそこらの一般的な女では性欲が湧かないが、グラビアから抜き出たような魅力的な女だったから春馬にしても性欲が湧き、何回も好い事が出来て彼は男冥利に尽き、男として自信が付いたことが何よりの収穫、と言いたいところだが、アパートを去る時、時化てるわねと言わんばかりの女の冷ややかな笑顔が帳消しにした。とは言え、もう死んでも良いと思う程、エクスタシーに達せられたことは、一生鮮烈な記憶として心に残るだろう。
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