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『お邪魔みたいだから、邪魔者は退散するわね。じゃあアナスタシア、さっきの話、二人で考えておいてね』
茹で蛸のように赤面し、口をはくはくとさせるアーヴィングを哀れに思ったのか、王妃はそう言い残すとニヤニヤしながら部屋を去って行った。
そして正気に戻り慌てふためくアーヴィングを宥めること数十分。
もう生きて行けないと言わんばかりに落ち込むアーヴィング。
久し振りの母親との小競り合いのせいもあって、優しく慰め続けることにも疲れてきたアナスタシアは、“とりあえず気分転換にもなるし”とアーヴィングを湯殿に突っ込んだ。
しかしこれがいけなかった。
あんな告白の後に風呂に入れられたアーヴィングの脳内は、現在理性担当と情熱担当、そして本体による鼎談会が開かれていた。
『シアは“気分転換”だって言っただろ?大泣きしてみっともない顔してたから、色々整えて来いって遠回しに言われたんだよ。そこに性的な意味合いはないよ!』と、理性アーヴィングが主張すると──
『まだ陽も高いのに湯殿だなんてありえないだろ!これは誘いだ!誘われてるんだよ!夜遅いと疲れてるし眠くなっちゃうから、今からシようって言ってるんだよ!』と、すかさず情熱アーヴィングが否定する。
そしてアーヴィング本体はというと、なにしろ経験がないので、なにもかもがわからなすぎた。
(でも今夜はその……するわけで……)
ということは、アーヴィングにも理解可能なやるべきことが一つだけある。
──身体の隅々まで綺麗にしなくては!!
アーヴィングは子どもの頃から誰かに世話をしてもらった経験がない。
だから自分の身の回りのことは一通りできたし、元来綺麗好きな性格だ。
日々の身体の手入れだって、これまでおろそかにしたことはない。
だからそもそも清潔なのだが、今日のアーヴィングは気合いが違った。
(この手がシアに触れるんだ)
そう思うと指が削れるほど洗わなければ気が済まないし、肝心要のあの部分に至っては──
アーヴィングは、目の前に並べられた数々のアメニティの中から、最高級の石鹸と絹糸で織られた身洗い用の布を手に取った。
そして大きく深呼吸をすると、石鹸を布の上で滑らせ、念入りに泡を立て始めた。
(待っていて、シア……!)
そしてここからアーヴィングの長い長い戦いが始まったのである。
***
「ねえ、アーヴィングはまだ湯殿にいるの?」
アナスタシアの問い掛けに、侍女たちは一様に困った表情を見せた。
「は、はい。私どもも、もしかしたら湯あたりでもされたのかと心配でお声掛けしたのですが、アーヴィング様からは『もう少しかかります』とお返事が」
「もう少しって、もう二時間よ!?」
お風呂好きなアナスタシアだって、そんなに入っていたことはない。
(そんなに気にしてるのかしら……)
確かにあれは、結婚相手の母親に見せる姿ではなかったかもしれない。
けれど、そんなところもアーヴィングの良さだ。
アナスタシアは、意気消沈していた数時間前のアーヴィングを思い出し、もう少し慰めてやるべきだったかと逡巡する。
しかしアーヴィングが今気にしているのは、主に手足口と局部付近の清潔及び研磨作業についてだが、そんなことアナスタシアには知る由もない。
「私が呼んでるからって、そろそろ出てくるように言ってくれる?いい加減にしないと干からびちゃうわ」
「かしこまりました」
湯殿に向かった侍女の後ろ姿を見送った後、アナスタシアはソファから立ち上がった。
「ずっと待っているのも暇だから、私も今のうちに湯浴みするわ」
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