「魂の守り神」

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「魂の守り神」

 1つ、昔話をしよう。  短く、そして冷たい物語だ。  東洋のとある国の、とある古の時代だ。 このラインより上のエリアが無料で表示されます。  ──純朴な女(むすめ)が、とある秘密を知り、追われていた。  追っ手から逃れ、山野を駆けるその四肢は傷だらけで、天から見ていると、思わず手を差し伸べたくなる程に、痛々しかった。  女は泣きながら、息を切らしながらも、必死の形相で逃げていた。  擦り切れた衣は、傷から溢れ出した血を吸い込んで汚れており、履き物は逃れている途中で、いつの間にか脱げてしまっていた。  ──日が、西の山に呑まれようとしている刻。  森を抜け、逃げ続ける女の目の前に、湖が現れた。  海を思わせる程の大きなその湖は、誰そ彼の空を映し、紅く染まっていた。  足を止めた女は、荒々しい呼吸と激しく鼓動する心ノ臓で、その湖を凝視していた。その口の端からは、唾液と共に血が滴り、長い髪は、酷く振り乱れていた。  突如、数人の男の怒気の込もった叫び声が、女の背後に広がる森の奥から響いた。・・・・・・追っ手の声だ。  女は体を震わせ、はっと振り向いた。  そして、薄暗い森の木々の隙間から、ジリジリと放たれる殺気に恐れを抱いた。  女は、泣き過ぎて赤く腫れた目を森に向けた儘、余りの悔しさに唇を噛んだ。  女はその儘、再び湖を見た。そして、俯いた。  強く握り締められていた、女の両手の拳は細かく震えていた。  ──何を思ったのか、女は突然、大きく息を吐いた。  その瞬間、目は光を失った。両腕をダランと垂れ流し、開いた掌の指先からは、細く血が滴った。  女は虚ろな目で、1歩前に進み、そして2歩目で、湖に身を投げた。  湖に身を投げる瞬間、女は体を反転させ、やや仰向けになる体勢を取った。  女が髪の隙間から見た、遥か落日・・・・・・。その視線に誘われ見てみると、落日は、悲しい程にとても美しかった。  女が身を投げた後、生まれた波紋は、追っ手が湖に辿り着く前に、呆気無く消えた。  ここからは、女の感覚も交えて話そうか・・・・・・。  体が水に包まれた瞬間、刺す様な冷たさが傷口に酷く染み、女はもがいた。  もがいたせいで、沢山の息を吐き、直ぐに苦しくなってしまった。  ──が、それはほんの一瞬の出来事だった。  女は徐々に、傷口の痛みさえ分からなくなっていき、ゆっくりと体が沈んで行く事の僅かな恐怖心さえ、霧散していったのだった。  直に夜が訪れ、円い月が空に浮かんだ。  女も湖の中から、その月を見た。そして、月に手を伸ばした。  掴もうとしたのか、何をしようとしたのか、分からない。  水底に沈んで行く途中、見上げた月は、女だけが知っている真実の様に、醜く歪んでいた。  女は、よくある古の"時代の激動"に呑まれ、果てた、幾千の命の内の1つだ。多過ぎて、名前など要らぬ程に・・・・・・。  しかし、直に死を迎えようとしている女の、その体の中には、燃える様な強い願いがあった。  余りにも強い"それ"は、天にも届く程の思いだった。  女は、時代を強く憎んでいた。  愚かな戦を幾度と無く繰り返し、無関係の人々を巻き込み、容赦なく殺め、尊い"平穏な日々"を奪いあった事・・・・・・。  女の、「生きたかった」と言う思いからは、「生」に対する凄まじい程の執念を、感じられた。  ──女がどんな最期を迎えるのか、見届けようと思った。  女の息吹きは、遂に尽きた。  しかしその瞬間、女は、一切の苦しみを感じていなかった。  余程深い湖なのだろう。水底は、まだ見えなかった。それでも月明りは、薄れていった。  骸となる前の走馬灯の中で、女は、幼い頃の事を思い出していた。  その思い出の中に、辛うじて残っていたのは、「魂の守り神の唄」だった。  初めて聞いた当時、まだ幼かった女には、「魂」と言うものも、普通の神とは違う、「守り神」と言うものも碌に分かっていなかった。  しかし、聡明な大人達が教えるその唄は、純粋な心を持っていた幼い頃の女には、他人よりも美しく聞こえ、そして優しく響いていたのだった。  女は死の刹那、心の中で、その「魂の守り神の唄」を、記憶の中で唄っていた。  その美しい唄が伝わる、女の故郷は、"時代の激動"に呑まれ滅んでしまった。無論、既に滅ぼされた、幾千の「クニ」の内の1つだ。名前など後世に残らない。  女は生前、大切な故郷が戦の炎に容赦無く呑まれ、朽ちていく様子を、叫びながら見届けた。  あれ程叫んだのは、それが最初で最後だった。  女は、自分を憎み出した。  無力で、愚かで、貧しかった自分を。強大な力を前に、何も出来なかった自分を、激しく呪った。  「生きられれば、凄惨な戦と時代を、後世に伝えられただろう。平穏な日々とは、何かを・・・・・・」と、女は又しても、「生」に対する凄まじい程の執念を、天に届かんばかりに燃やしたのだった。  冷たい、湖の中で──。  "真の死"が、女に訪れる瞬間、女の魂が強烈な光を放ち、その体から離れた。  遂に水底に触れた骸とは対照的に、その輝く魂は上昇し、月明りに満ちる水面を抜けた。  そしてその魂は、幾万の星達と共に、夜空で瞬いたのだった。  ──物語は、これで終わりだ。其方はこの物語に、何を見る?  女は死に、その骸は、広く深くそして真っ暗な湖の底に沈んだ。  「魂の守り神の唄」も、最後の生き残りだった女が死んだ事により、滅んだ。  後世に、伝えられる事無く・・・・・・。  しかし、女の体から離れた魂は、時空を越え、今も生きているのだ。  「生」に対する、恐怖を感じさせる程の、激しく、しかし真っ直ぐで清い執念だ。  其方はこの物語に、何を思うだろう。  歴史に名を刻まぬ者の、名も無い物語だ。
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