隣の芝が、青いワケ

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キャンドルに火を灯してお風呂に入った。というのも昨日、自分の好きなドライフラワーや香りを選んでキャンドルをつくる、ワークショップに参加したのだ。作品が出来上がったときに先生から、「お風呂でつけるのもリラックスしていいですよ」と言われた。なるほど、お風呂なら火をつけても危なくないし、湯船に浸かりながらたゆたう火を見るというのも、オシャレではないか。私は早速、それをやってみたのだった。 普段は何の迷いもなくつける電気をつけずに、火を灯したキャンドルを持って浴室に入る。湯船のわきにキャンドルを置いて、ゆっくりとお湯に浸かった。初めのうちは、「ちょっと暗すぎるかも」と思ったが、目は次第に薄暗さに慣れていく。周りの景色が見えるようになってきた頃、私の身心はぐんにゃりとしていた。落ち着く、ものすごく。そういえば、マッサージになんかに行くと、施術室は大体こんな明るさだ。もしかしたら、浴室という狭い場所にキャンドルを灯すくらいの明るさが、ヒトにとっては丁度いいのかもしれない。 そうやってしばらく、湯船に浸かっていた。そろそろ上がろうかと思ったが、キャンドルをのぞき込むと、〈プール〉はまだ中心の辺りに留まっている。ワークショップの先生から、溶けたロウが溜まっている部分を〈プール〉と呼ぶのだと教えてもらった。プールがキャンドルの淵付近まで来るように使っていくと、使用後のキャンドルが器として使えるようになるそうだ。だとすれば、まだキャンドルを灯す時間が足りない。私はキャンドルの火を頼りに、体や髪を洗ってしまうことにした。 この程度の明るさでも、案外体を洗う分には支障ない。リラックスできるし、節電効果もあるし、いいこと尽くしだ、と思ったその時だった。 脱衣所の方から、チラチラと光が動くのが見える。夫が手を洗いに来たのかもしれない。私の家は脱衣所と洗面所が一緒になっており、夫が洗面所に来ると浴室からその気配が分かる。私がお風呂に入っているときは、なるべく入ってこないでと言っているのに。文句を言ってやろうと浴室のドアを開けると、そこに夫はいなかった。脱衣所と洗面所は、私がお風呂に入ったときのまま、電気はついていない。じゃあ、この目障りな光はなんだと辺りを見回すと、廊下の光が洗面所のすりガラスに透けているのが見えた。 私は光の正体を知って、驚いた。いつものように電気をつけてお風呂に入っていたら、すりガラスから透ける光になんて、気づきもしなかっただろう。だが、薄暗い浴室の中にいると、微かな光がこんなにも目障りだ。そのとき、ふと「隣の芝は青い」という慣用句が頭に浮かんできた。浴室が暗かったから、僅かな光が気に障った。きっと、自分の芝が枯れているから、隣の芝の青さが気になるのだ。明るい場所にいれば、周りの明るさも気にならない。同じように、自分の芝が青ければ、隣の芝の青さなんてどうでもいいのだ。 自分自身が「満たされている」と感じている部分は、他人に対して寛大でいられる。しかし、「足りない」と思う部分は、他人に対して心が狭くなりがちだ。例えば私の場合、結婚した同僚に対しては「良かったね」と思った。私は数年前に結婚して、今年子どもも産まれた。一方、マンションを買った友人に対しては「羨ましいな」と感じた。私は賃貸アパートに住んでいて、家やマンションを買う予定すらない。 隣の芝が青く感じるときは、自分の芝が枯れている。それ気づけば、自分の芝に水を与えられるかもしれない。本当はなかったことにしたい、「羨ましいな」という感情を受け入れたら、私もその「羨ましい」と感じる状況に、少しだけ近づけるだろうか。
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