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彼の災難
ああ、うっとうしい。饐えた臭いが鼻につく。足元に目をやった。ゲロを踏んでしまった。最悪だ。何でこんなことになるのだ。
周りの客たちがチラチラとこちらをみている。離れた席に座る客は何事もなかったかのように酒を飲んでいた。酔っぱらいの男は「馬鹿にしやがって」「もう死にたい」「殺してやる」などと泣き出しそうな声で言っている。ため息が零れた。
「おう、兄ちゃん。どうしたため息なんかついて」
酔っ払いが声をかけてきた、無視していたが、構わずに続けて
「ため息ついたら、幸せが逃げるんだぞ。だから、深呼吸に変えちまえ。吸ったら吐く、吐いたら吸う。でも、ゲロは吐いたら吸えねえな」と下品に笑った。
腹の底から怒りが沸々と湧き上がってきたが、これが終われば休憩だ、と言い聞かせながら吐しゃ物の片づけをする。
「兄ちゃん、またゲロ吐きそう」
「吐いたら殴りますよ」心の中で吐き捨てたつもりが言葉になって出てきた。
「そしたらまた吐いちゃうよ」
「だったらまた殴ります」
「またまた吐いちゃうじゃん」
「再度殴ります」
「そんなに殴られたら何も出ないよ。さすがに」
「何でお腹って決めつけてるんですか?」
「えっ、顔面?」
素っ頓狂な声を上げたかと思うと、突如、暴れ始めた。なんとか押さえつけようとしたが、振り払われ、壁に頭を強打した。悲鳴が上がる。男が手を叩いて笑って、
「じゃあ、帰るわ」
店を出て行った。誰も追いかけなかった。痛む頭を手で押さえると違和感を覚えた。
見てみると掌が真っ赤に染まっていた。
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