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遺体のそばには年式の古い白いワンボックスカーが停めてあり、ドアは施錠されていなかった。
車内に無造作に放置されていたナイロン製の大きなトートバッグの中には、車のキーと財布やスマートフォンなど、金目の物が手つかずに残されていた。窃盗のセンは薄い。
飾りけのない革財布には、1万円あまりの現金に銀行のキャッシュカードと免許証、勤務先とおぼしき会社の社員証などが入っていた。
それにより、被害者が、都内のアパートに在住する26才の女性だと判明。
ICカード式の社員証に刻印された企業名は『あじさいペイント株式会社』という、大手の絵画用品や筆記具のメーカー。『あじさい絵の具』や『あじさいペンキ』という商品は昔から日本じゅうで親しまれ、日常的な固有名詞として通用する認知度がある。
被害者は、その『商品開発部』という部署に所属していたようだ。
遺体の足元には、1台の脚立が倒れている。一見すると、高所で作業をしていたときに、脚立ごと路面に落下して転落死したようでもある。
だが、アオムケの状態にある遺体の首の前方に深々と突き刺さったままの、細長く小ぶりな凶器が、その可能性を否定する。
「ドライバーか?」
遺体のそばに長身をかがめて、ヤブニラミに凶器を観察しながら、警視庁の警部がつぶやく。
「ええ、そうです。そこいらに、いくつか缶が転がってるでしょ? その蓋をコジ開けるのに使ったみたいですね」
と、ユニフォーム姿の鑑識員の1人が答えた。
脚立の周囲に点々と4つばかり横倒しに転がっている円筒型のアルミ缶を、クイッとしゃくったアゴの先の方向で示す。
ホームセンターのペンキ売り場なんぞで良く見かける1リットルの缶だ。ラベル等は一切なく、内側も外側も銀色の鈍い光沢を放っている。
位置関係から察するに、脚立が倒れた拍子にぶつかって引っくり返ったように見える。
若い刑事は、路上に転がっている空き缶をひとつひとつ入念にのぞきこんでまわった。
「あれぇ? どれも完全に空っぽですね。ぜんぜん汚れてないし。絵の具とかペンキが入ってた形跡がまるでない」
「だったら、その缶の中には何が入ってたんだ?」
警部が聞き返す。
刑事は、首をひねって周囲を見わたした。
「さあ? 最初から空っぽだったのかも。実際、どこのシャッターにも絵は描かれてないし。今夜は、現場を下見に来ただけとか」
警部は、しゃがみこんでいる刑事の背後に立つと、チッと舌打ちしながら、
「ほら、よく見ろ。地面がうっすら湿ってるじゃねぇか」
たしかに、缶が転がっている周辺のコンクリートタイルは、他の場所より色が濃くツヤめいている。
「あっ、ホントだ。なんだ、コレ? ただの水が零れただけみたいに見えるけど……」
刑事は、地面に顔を寄せ、クンと鼻をうごめかした。
「なんか、ペンキみたいな匂いがする。透明なのに」
「塗料用の"薄め液"とかですかね? こっちの缶の中にも、透明な液体が残ってますけど」
ワンボックスカーを調べていた鑑識員が声をあげた。
手には、路上に転がっているのと同一のアルミ缶を持っている。車内から発見したのだろう。
「おい、遺体のほうもよく見ろ」
と、警部が、刑事の頭を軽く小突いた。
「オマエ、どう思う? 被害者がつけてるケッタイなメガネ」
「そりゃ、暗視ゴーグルに決まってるでしょ」
刑事は、わずかに崩れたマッシュルームヘアを五指で念入りに梳きながら、少しばかり口をとがらせて答えた。
路上に放射線状に乱れ広がっている長い黒髪に囲まれた遺体の顔は蒼白で、命が失われてから2時間以上が経過したと訴えている。
小麦色に日焼けした健康的な免許証の写真とは大違いだ。
だが、顔色以上に異様なのは、遺体が目元につけているゴテゴテしたメタリックな眼鏡で。レンズの代わりにオペラグラスを両目に装着しているような形状なんである。
「ひなびた商店街なんて、外灯も少ないし。"シャッター通りのバンクシー"がシャッターに落書きするのは、いつも決まって夜明け前だから。特注の暗視ゴーグルが必要だったんですよ、きっと」
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