シャッター通りのバンクシー

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 瀕死(ひんし)の女性が最期の力をふりしぼり、脚立(きゃたつ)のテッペンにヨジ登り、閉じた店のシャッターに"赤い絵の具"で書きつけた、人の名前。  しかし、周辺に赤い塗料の形跡(けいせき)はまるでない。  腕組みして赤い文字をニラみ上げていた若い刑事は、ふいにドングリ(マナコ)をハッと見開いた。 「さては、被害者(ホトケさん)。血まみれの自分の口に絵筆(えふで)を突っ込んで、犯人の名前を血文字で書き遺したとか?」 「ああ。(クチビル)の横に、絵筆(えふで)がコスれた(あと)が付いてるしな」 「(すさ)まじい執念(しゅうねん)ですね! けど、なんだって、シャッターのあんな上の方に、わざわざ書く必要があったんですかね? 犯人に復讐したい一心で錯乱(さくらん)して、正常な判断できなくなっちゃったのかなぁ?」 「…………」  警部は無言で。精悍(せいかん)なアゴをナデまわしながら、伸びかけのヒゲ先のザリザリした感触を楽しみつつ、考え込む。  たしかに、非常に奇妙ではある。  現場の状況からみて、被害者の女性は、ドライバーで首を突き刺された状態で脚立(きゃたつ)をヨジのぼり、(みずか)らの血を(ひた)した絵筆(えふで)で、何者かの名前をシャッターに書き遺した。それから息絶えて、脚立(きゃたつ)ごと地面に(くず)れ落ちたと。そう推理できる。  犯人が、誰かにヌレギヌを着せるため、被害者に強要(きょうよう)して他人の名前を書かせた可能性も考えられるが。であれば、なおさら。こんな不自然でまわりくどい状況を仕組むのは、無意味だし逆効果だ。  やがて、血文字が記されたシャッターの店の店子(たなこ)(※借主)が、所轄(しょかつ)のパトカーに乗せられ現場にやってきた。  午前4時をまわった頃だった。  店子(たなこ)の女性は、路面に倒れる遺体を見るなり、狂ったように走り出したが、捜査員たちに制止され、黄色いテープの内側には入れなかった。  警視庁の警部と若い刑事は、女性の前に歩み寄った。  刑事が、ツッケンドンな調子で問いかける。 「被害者の女性と、知り合いなんです?」 「は、はい。1年前まで、同じ職場でしたし。同期入社で、部署も一緒で。プライベートでも親友だったんです」  女性は、ヒックヒックとしきりにシャクリあげながら答える。  被害者女性と同じ26才。華奢(きゃしゃ)な体格に少女趣味のワンピース姿は、被害者とは対照的な雰囲気だ。  カフェオレ色のふわふわした柔らかな髪を肩の上にふるわせながら、あどけなさの残る丸顔にレースのハンカチを押し当てて泣きじゃくる様子は、妙に庇護欲(ひごよく)をそそられる。  下世話(げせわ)にいえば、男好(おとこず)きのする、小動物めいた愛くるしさの女性なんである。  いかんせん、奥手(おくて)で正義感の強い若い刑事は、冷たい視線を失わなかった。  被害者の親友を自称するこの女性の名前が、被害者がシャッターに血文字で記した名前と同じだからだ。  女性を犯人だと決めてかかっているから、性急にたたみかける。 「アナタは、被害者が"シャッター通りのバンクシー"だということを知ってましたか?」  女性は、ビクリと肩をはずませ、 「は、はい。彼女が商店街に絵を描くときは、いつも、わたしが手伝いをしてました」 「じゃあ、今夜も?」 「いいえ! 今夜この商店街で絵を描くなんて、彼女、ヒトコトも教えてくれてませんでした、わたしに」 「本当に?」 「本当です! だって、わたしの店もうじきオープン目前なんです。いろいろ準備が忙しくて」  ここで警部が、ピクリと片眉を跳ね上げると、口をはさんだ。 「ほう。なんの店を開くんです?」 「画材の専門店です。絵筆(えふで)額装品(がくそうひん)や、絵の具なんかを店頭販売する……」 「なるほど。前職のキャリアを生かすんですね?」 「え、ええ。まあ」  女性は、バツが悪そうに顔をそむけた。  警部は、すかさず問いつめる。 「1年前まで、被害者と同じ『あじさいペイント』の商品開発部にお勤めだったんですよね? 会社をおやめになったキッカケは?」 「…………」 「お聞かせ、願えませんか?」 「特許問題(とっきょもんだい)でモメて。もう解決しましたけど」 「特許問題(とっきょもんだい)?」 「ええ。わたしと彼女が社外で勤務時間外に発明した特殊(とくしゅ)な塗料の特許権(とっきょけん)を、会社に帰属(きぞく)させるべきかどうかで」 「で、どう解決を?」 「わたしと彼女の2人だけで特許権(とっきょけん)を共有することが認められました。でも、芸術畑の出身の彼女と違って、化学が専門のわたしは、それ以上、会社で研究開発に関わるのは気まずくなって」 「なるほど。ってことは、彼女が亡くなった今、アナタが特許権(とっきょけん)をヒトリジメできるというわけだ」 「そんな言い方! ヒドい……っ」  女性はハンカチに顔を伏せ、ひときわハデな泣き声をあげた。  警部と若い刑事が意味深(いみしん)な視線を交わしたとき、所轄(しょかつ)の刑事が小走りにやってきて、声をひそめた。 「近くの通りでウロついていた不審(ふしん)な男を職質(しょくしつ)した捜査員から連絡があり、すぐこちらに同行させるとのことです」  現れたのは、予想外に清潔感(せいけつかん)のある、カジュアルな服装の20代前半くらいの好青年だったが、半狂乱(はんきょうらん)で泣いている女性を目にした瞬間、ギョッと立ちすくんだ。  異様な視線に気付いたのか、女性も、ふっと顔を上げて青年を見るなり、白い顔を真っ青にこわばらせた。
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