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第三章
お父さんってどんな人? そう尋ねられると、何とか優しい場面を探そうと努力してしまう。
しかし浮かぶのはいつも、私が父の痩躯をスポンジのような力のない腕で叩き続けている、5歳の記憶だった。よれたセーターを裏表で着るような人だった。風呂場の刷りガラスやトイレの扉など至る所に父の目線にしか合わない高さで「お湯は抜いてください」「電気は消してください」と注意書きが貼られる家だった。いつも乱暴にちぎられぴらぴら揺れるコピー紙の切れ端とセロハンテープを、背伸びしてカリカリと剥がすのが私の日課だった。
その日は父の生活の導線が、珍しく私たちの生活にバッティングした日だった。いつもと変わらないはずの、鰈の煮つけの甘辛い香りが幸せだった夕暮れ時。私は思わず、部屋の中で虫を見つけたような顔をしたのを覚えている。
『大丈夫......堕ろさせる』
アルコールの臭いのする父のこけた頬を、母が叩いた。自尊心以外をそぎ落としたような、骨のように白い父が母を睨み髪を引っ張り上げる。そこで私の視点はちかちかと真っ赤になる。
私はずっと、三倍ほどある長身の父を叩き続けている。壊れたフィルムを延々と再生するかのように。父が死んだ今でも、ずっと。
私は心の中でとっくに母の旧姓になっており、皆藤と呼ばれるのがいやだった。なので学校でも病院の待合室でも「皆藤さん」と呼ばれると勤めて堅く「はい」と返事をした。
私の心は誰にも許されるものではない。いつかこの苗字が失われた後も、私には正しい苗字が存在する。
この名前は母が一人でつけたものだ。
えん。むらさき、えん。紫苑。
縋るようなその名前が、私はそれでもすきだった。
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