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第四章
食器を片づけ終えて、笹川さんは取り込んだ洗濯物をたたみ始めた。私は18時のニュースを何とはなしに見て、あくびをする。ふと、クローゼットの中に見慣れない、やけに襟のしっかりしたシャツがあったので私は尋ねた。
「笹川さん。そのシャツは何?」
私のブラウスやリボンのついたブラを丁寧に折りながら、笹川さんは、ああこれ? と言った。隣にはくたびれたスーツが異様な存在感で掛けられていた。彼は就活用のスーツだと言った。
「なんで、それをこっちに持ってきたの?」
「この前、えんちゃんがイイよって言ったから、古いアイロンは捨てて僕のやつを持ってきたじゃん。だからスーツもこっちにお引っ越し」
彼は着実に荷物の整理をしている。ここのところ彼の部屋は、最低限の水道光熱費と家賃を納めるだけの空間と化している。もちろんその5万円ほどの出費は、私と笹川さんの間に取り決められた、契約のひとつだけれど。
「やっぱり、まずかったかな?」
笹川さんはたたみ切った、私のものと彼のものとに別れた洗濯物の塔を両手に抱える。私は自分のものを受け取り、のそのそとベッドの下に収納する。私は答えなかった。まずいことではあったけれど、正しく理由を説明できなし、契約に抵触するわけでもない。そもそも契約なんて仰々しい言い方をしているけれど『私たちは半同棲であり続ける』『私に一般的な男女の共同生活を教える』ただそれだけのことだった。抵触しているかどうか、その判断基準すら私にはなかった。
私たちは二人でベッドに座り込み、ぴったり寄り添って映画を見た。笹川さんはペットボトルの飲み口を唇にあて、ハムスターが水飲み器から水をなめとるように、少しずつ唇を開きながら飲んでいた。視線はテレビから離さないまま、パクパクしている。
ゆっくり彼の肩に頭を預ける。彼はペットボトルを口から離し「何?」と尋ねた。膨らんでは萎む彼の体を感じる。気づけば私は横になって居眠りをしており、映画は終わっていた。ホーム画面の薄青い光の中で、私はかけられていたタオルケットを、寄り添って眠る彼にかける。
私の下着をたたむその手が、無防備にタオルケットから投げ出されている。
湯船にお湯をためる。彼はこんなことでは起きない。限りなくぬるいお湯につかると、毒が抜けていくのがはっきりわかる気がして、すきだ。
お風呂を済ませ、間接照明をつけて化粧台に腰を下ろす。さすがにドライヤーは使えないので、タオルで丁寧にふき取ってから笹川さんによりそった。
まつ毛。薄く皺の入った唇。放り出された手の、生命線をなぞる。彼の生命線と運命線は先が枝分かれしていて、手首の少し上の一点だけで交わっている。たまらなくなって、私は彼と手を重ねて、握りこんだ。
「ねぇ、えんちゃん」
びくっとして目を向けると、笹川さんが目を開けていた。思わず離しそうになった右手を、笹川さんが握りこむ。
「なぁに、笹川さん」
私は、声を甘くする。
「僕はやっぱり、君と同棲したい。ひいては結婚したいと考えているよ」
私は途端、涙が出そうになって、唇を噛んだ。
「うん」
唇を重ねなくとも、体を重ねなくとも、彼の中では日に日に清廉潔白な男女の生活が膨らんでいく。私にも確かに、その純情な生活の方が想像しやすいのは確かだ。けれど。
「君を幸せにするよ」
「うん」
彼は「えんちゃん」と私の名を囁く。たまらなくすきだ。笹川さんだけが、正しいタイミングで、抑揚で、私の呼ばれたいように名前を呼んでくれる。
「むらさき、えん、ちゃん」
私は力なく、はぁいと声を出す。私の意志ではないかのように。底から気泡が一つ浮かび上がるように。
「えんちゃん……。僕は、いつまでもお父さんの、呪いに甘えているのは、やめた方がいいと思うんだ」
笹川さんも泣きそうな顔をしていた。もしもこの言葉が、別れを覚悟してのものだとしたら、本当に申し訳ないと思う。私は正面から受け止めることができない。
おそらく、笹川さんも不安なのだ。自分が目指しているものが、あまりにも潔癖であることが。それでも彼は「僕と二人なら、お父さんのいない場所に、誰にも傷つけられることのない場所へと行けるよ」と言っているのだ。
力の入らない腕で上体を起こして、私は彼の背中を叩いてみた。何度も。何度も。けれど答えは出なかったので、立ち上がる。
「どこに行くの。外は深夜だよ」
外は、だなんて、まるでこの部屋だけは違う、明るい場所にいられるとでも錯覚させる言い方、ずるい。
「大丈夫。そこのコンビニまでだから」
笹川さんの手を振りほどいて私は部屋を飛び出した。
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