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第五章
「どうしたのえんちゃん。こんな時間に電話してきて」
ちっとも眠くなさそうな声で、阿左美さんはそう言った。
「すみません。阿左美さん。また、男の人、紹介してください」
コンビニの明りに照らされながら、縁石に座って、一言ずつ伝える。
「……いいよ。また喧嘩?もう真っ当な彼氏を探せばいいのに。私、あなたたちのような生物のこと、やっぱりちっとも理解できない」
私は阿左美さんを非難することができない。管理されているのは私も同じ。
「いつものコンビニにいるのよね? だったら先月使ったホテルに呼び出しかけとくから」
上下スウェットですっぴんで、街を歩く。補導されてもおかしくはないと思いながらも、その経験はない。
私には、どうしたって父の血が半分は混ざっている。それを言い訳にしているわけではないけれど、私が知らない平和な家庭を笹川さんと築いていこうとするならば、欲はどこか別の場所に捨ててこなければならない。
「君が阿左美ちゃんの紹介の人?ほんとに若いねぇ。大学生だったよね?」
ホテルの前では、白髪交じりでやせ細ったスーツの男が立っていた。「よろしくお願いします」と手を取るものの、あとは任せる。すきな部屋を選んでもらい、エレベーターで移動して部屋に入る。
「それで?阿左美ちゃんからは一応、愚痴を聞いてあげてって言われたんだけど。僕もそんなに、性に奔放な歳でもなくなっちゃったからさ。最後までするつもりも一切ないから」
赤い革のソファに腰を下ろし、男は弱弱しくそう言った。
阿佐美さんには感謝をしなければならない。私のこれは真似事であって、阿佐美さんの良心に全てを委ねている。私はいつものように、枕詞のように、同じ話をする。吐き出したい言葉はいつだって同じだから。
「私、皆藤苑って言います。でも、もしよければ紫苑って読んでください。私、本名がきらいなんです。私がお腹にいる時に、別の女を作った父親と同じ苗字だから」
どれだけ関係が冷めきっていようとも、恨んでいても、母は父を最後と決めて、そして家族となったのだ。自分の出生を疑ったことは一度としてない。だから間違いなく、その血は半分、私に流れている。
「私の母の旧姓は、紫です。母は私が、旧姓を用いることで美しくなる魔法をかけてくれました。私は、紫苑、と申します。どうぞよろしくお願いします」
父と母は、私の大学進学を待って、死んだ。母の運転で事故にあったらしい。未成年ということもあって手続きや葬儀に関しては、祖母と叔母が協力して当たってくれた。父方の人間は、一人として私の前には顔を出さなかった。
「そうか。……うん。そうか。それは、つらいだろうね」
男は、それ以上は何も言わずに、ただ頭を撫でてくれた。タバコの臭いが鼻を掠める。何種類も混ざった香水の香りに、私は少しだけ安心する。よかった。やさしく弱い人だ、と思う。手は段々と耳へ、首筋へと降りていく。節くれだった指は、なんだか人ではない生き物に思えた。
私からスウェットを脱ぐ。シャンプーの匂いが広がる。男の目がすこし溶けた。
男の手は、どこまでも静かな手つきで、気づけば私は涙をこぼしていた。男は私の涙をなめとり、鎖骨から足の指まで私を味わう。私の条件に当てはまる男性は、性的嗜好が似ている。
汗も涙も唾液も、ありとあらゆる膿を体外に出す。私の中にたまった女すべて、この男に捨てる。生まれ変わったようなつもりに、なるのだ。私の、滲むようでいて、それでも確かに存在してしまうねじれた欲を捨てる時だけ。
この罪悪感で、私はまた、笹川さんと暮らしていくことができる。
目を赤くして黙り込む私に服を着せて、男は入り口まで私をエスコートして、タクシーを呼んでくれた。運転手に一万円を手渡し「おつりはこの子へ」と伝え、私に向かって手を振る。タクシーがすぐに走り出す。
阿左美さんに頼ること、笹川さんを裏切り続けること、自分自身への恥ずかしさ。父への恨み、母への後ろめたさ。紫苑なんて。勿忘草なんて、そんな呪いのような名前。自分たちの死へ手向けるような名前を付けるなんて忘れられるはずがない。あなたのためを思って死んだの、とでも言いたげなその名前。ごめんなさい。それでも私を忘れないでいて、とでも言いたげなその名前。それにすがらないと生きていけない私も含めて。
コンビニの少し手前でタクシーを降りてから、私は一歩一歩、慎重に歩いた。会いたい。笹川さんに会いたい。無性にそう思った。
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