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最終章
笹川さんは、コンビニの縁石に座っていた。私が日が昇るまでに帰ってくるとわかっていたのだろう。
「あ、えんちゃんお帰り。無事でなにより」
彼を見て、今日は枯れたと思っていた涙がまたとめどなく流れてきた。笹川さんは私を抱きしめてくれる。彼の胸が膨らんだり萎んだり、呼吸を繰り返す。
「笹川さん。私たち、歪だよ。変だよ。やっぱり」
私は彼の胸の中で訴える。笹川さんは、私の手を引いて帰路を歩く。
「えんちゃん。それでも、僕たちは、離れられないよ」
笹川さんは真面目な声でそう言った。それっきり二人とも何も言わず、私たちは、私たちの部屋へと帰った。
数週間たって、私たちは変わらずに半同棲をしている。
笹川さんはやっと一社、最終面接にこぎつけたらしい。私と阿左美さんは変わらずカフェでお互いの近況を、娯楽小説を読むかのように語り合い、進まない時間の中を過ごしている。
「ちょっとえんちゃん、またサロンのポケットに紙屑入れたまま放り込んだでしょう。あーあ、一枚じゃないねこれ」
洗濯物を片腕にかける笹川さんは、サロンを私に向かってひらひらと振った。笹川さんの非難の仕方は、クッキーを指の腹で砕いてしまったかのような、寂しさが見て取れる。この人はいつも。怒らない。
この人は、対象が私だから清廉潔白な生活を目指しているのではない。この人の中にある生活感も、また絵空事の類なのだ。だから、私たちは共にいる。薄情な共依存を、やめられない。
「ごめん。取るの手伝うから」
「いいよ。それよりご飯つくって。俺、あれが食べたい。元気の出る鍋。具がほとんどおでんと同じやつ」
「あぁ。あんなのでいいなら、いつでも」
私が彼にしてあげられることは、自分の罪悪感を払拭するためだけの行為でしかない。お互いに、触れて欲しくないところは、しっかりと守り通しているから。
私は私の口から彼に別れを告げることはない。彼もまた、私に別れを告げることはないと思う。わかりやすい裏切りが何度続いてもそれは契約に抵触しない。私たちは、共にいることが大事なのだ。一人にならずに、限りなく快適に生きていける術が必要なのだ。たとえそれが、時折目も当てられないほど歪んだ欲を生み出そうとも。
「見て見てえんちゃん。雪みたいだよ」
笹川さんがさっきとは打って変わって、甘やかな声で私を呼んだ。厚い雲に覆われた曇天で、開け放った掃き出し窓からはぬるい空気が入ってくる。
笹川さんが、よれたネイビーのニットシャツをばさばさ揺らすと、千々になったティッシュがふわふわと落ちていく。
「ほんとだ。なんかきれいだね」
スノードームのように、4年たっても変わり映えしないこの南向きの景色に雪が降る。夏の雪だ。
「近づきすぎちゃだめだよ。深呼吸もだめ」
笹川さんは、私よりうんと年上になった気持ちでそう言った。私はうんと年下になったように、しゃがんだまま深呼吸をした。
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