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第一章
「ただいま留守にしております。ご用件を承ります」
そう言い放った阿佐美さんの流暢で冷たい声に、私は胸がすく思いがした。出勤前、一様にコーヒーをすする人々の群れの間に、ピリッと緊張が走ったような気がしたから、なおさら。
ベリーソースの滴るパンケーキを音もさせずに切り取りながら、阿佐美さんはスマートフォンを頬と肩の間に挟み、相手の言葉を待っていた。一拍を置いて、漏れ聞こえた相手の女のキンとした声が、場違いな緊張を生む。
3年でことごとく単位を取りつくして4年目に入った私と、一日の大半を持て余している阿佐美さんは、同じ時間軸で生活をしていた。私たちがアルバイトをしている弁当屋から歩いて5分の距離にできたカフェに、毎日のように通い、こうして席を共にしている。
私はドキドキしながらコーヒーをすすった。
きっちりと後ろで結わえた髪と、疲れ切ったような目じりのしわ、不惑の年齢に差し掛かろうとしている彼女は今、若い燕と同棲をしている。
コーヒーが底をつく頃、阿佐美さんはスマホを机に伏せ、またパンケーキに集中し始めた。女の声は、もう聞こえてはこない。
「そのスマホ、彼氏さんのですか」
伏せられたそれを指さして、私は聞いた。
「そうよ。あの子、どうせ私が帰るまでは起きてこないから」
山のように盛られた生クリームをナイフですくい、パンケーキに塗りたくっては頬張る。白いブラウスに鶯色のカーディガンを羽織った阿佐美さんと、ゆったりとしたパーカーに、黒のリュックの出で立ちの二人は、はたから見れば奇妙な組み合わせだった。
阿佐美さんは、いつも口座を溶かしてくれる存在を求めていた。この年になって子供の一人もいないから、金と手がかかって、愛でられるものが欲しいのよ、というのが彼女の欲であるらしい。
ゆったりと流れるボサノヴァ、シーリングファンの穏やかな回転を眺め、阿佐美さんは一息つく。
「ところで、えんちゃんの方はどうなのよ。あの召使は」
私には、召使がいる。彼を初めて部屋に呼んだ時、一度も磨いたことのないフローリングや、ごみ袋に詰め込まれたプラスチック容器の塊をみて「ここはまるで、君だけのお城みたいだね」と言ったことが妙につぼに入って、私は彼を、第三者には召使と紹介するようにしていた。
お城に一人で住む健気な姫、といったイメージを私は気に入っている
「別に、まだ付き合ってませんし」
「難儀ねぇあなた。気持ちはどこまでもあるくせに」
そう、気持ちはある。私の方には。でも、彼の気持ちは積もれば積もるほど雪のように白く、清廉潔白なものだった。私はひとつため息をついて、リュックの中に丸め込まれた制服とサロン、帽子、作業用のパンツはすでに履いていることを確認する。
「阿佐美さんは優しいですね。あなたの男を糾弾せず、女を斬っていく。案外、彼の精神的支柱になってたり、して」
使い切った砂糖の袋を、たたみ、たたみ、たたみ、たたみながら私は言った。阿佐美さんは彼氏を、私の男、と表現する。それは所有物ではなく、私の一部、のような呼称だ。私の中の男としての部分。〇×の×を集積したような物体。
「やだわ、私のような女、支えにするより薪にして火にくべた方がマシよぉ」
思い出したように四十代というイメージを抽出したように語尾を伸ばす。私のような女、とは言ったけれど、私には、女のような私、の方がしっくりくる気がした。
「でもねえんちゃん、優しいって言葉だけで自分を捉えて、慰めて、戒めてるだけじゃ私、四十年も生きていられないわ」
時計を見ると7時32分。そろそろ切り上げ時だ。8時からまたオープン作業が始まる。
「そろそろいきましょうか」
阿佐美さんのトレーを重ねて、返却口に返す。
私と阿佐美さんは、出会えた時期がよかったのかもしれない。ある程度、ダイジェストにできるほどの時間が私に流れてから出会えた人だ。大きな溝と言えば聞こえが悪いが、ほんの20年分ほどの川幅だと捉えればちょうどいい。彼女は私の若さ故の稚拙さを、水のような曖昧さでもってきれいに洗い流してくれる。
外へ出ると、まばらな通行人の中にちらほら、異界に迷い込んだかのようにあたふたしている外国人がいた。キャリーバッグとスマホを片手に立ち尽くしている。この街はまだこの時間には開かない。
腕から汗がにじむ。じっとりとした暑さがまた始まり、街を埋め尽くす。低気圧のような夏の到来が私には疎ましかった。
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