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僧侶③
「ね。ご飯そろそろできるってば。ね」
目を開けると、妻の丸い顔が目の前にあった。壁の時計を見るともう6時を過ぎている。俺は公園から帰り、ソファに横になっている内に眠りこけていたらしい。
「多分、二階も寝てる。物音ひとつしない。千尋さん。まりも、起こしてきてくれる?私、今、揚げ物してるからさ」
俺は目をこすりながら起き上がり、窓の外を見た。真っ暗だ。そりゃそうだ。
「なんか今日、10キロ走ってきたんだって。疲れてるんだ。起きなかったらそのままでいいから」
俺は妻にせかされるままにダイニングを出ると階段を上り、娘の部屋のドアをノックしたのだった。
とんとん
返事がない。少しためらった後、俺はドアを開けた。相手は女子中学生。このドアを俺の手で開けるのはいつぶりだろう。俺がドアを開けると、まりもは暗がりの中、ベッドに座ってスマホを眺めていたのだった。驚いた。
「あ。お父さん」
「ご飯だって。ノックしたのに。起きてたんだ」
「ごめん。ちょっとショックが大きくて」
「どうした?電気点けるよ」
俺は電気をつけると椅子に腰かけ、部屋を見まわした。家具はすべて量販店で揃えた小ざっぱりした部屋。その白い壁に、トライアスロンのスーツがかかっている。
「私さ、出らんないんだよ、大会。オリンピックディスタンス」
「え?なんで?」
「成人してないとダメみたい。18歳以上が条件。どの大会も」
まりもがトライアスロンを始めたころ、俺も少し調べたのでオリンピックディスタンスが何かは知っていた。トライアスロンの大会は、スイム3.8キロ、バイク180.3キロ、ラン42.195キロなんていう最高峰のレースを筆頭に、様々な距離で行われている。オリンピックディスタンスというのは、スイム1.5キロ、バイク40キロ、ラン10キロを競うオリンピックで採用されている距離区分の事だった。まりもはひとまず、ここを目指して毎日練習しているのだった。
「私、まだ13歳。出場できるまでに5年もある」
「今日10キロ走ってきたんだよね」
「うん。やっと走破した。だから、来年の夏は出るつもりでいた」
ち
「ん。今のは?「ち」って」
「やもりだよ。あれ?いないね。さっきまで窓の上の壁にくっついてた」
「まりも、いつも何話してるの?やもりと」
「なんでも。一番の相談相手」
なんかそれ、ちょっと怖いけどね、まりも。
それにしても、オリンピックディスタンス出場までに5年。そりゃ、ショックだ。子供の頃の時間の進み方って永遠みたいに長く感じる。
「ショックだね。わかるよ」
「うん」
「あのさ。まりも。まりもが出られる大会もあるんでしょ」
「あるよ。中学生の大会もいくつもある」
「おお。距離は?」
「スイム375メートル、バイク10キロ、ラン5キロ」
「随分とそれは」
「そうなんだよ」
まりもは多分、そのぐらいの距離なら毎週のトライアスロンクラブで練習しているはずなのだった。それなら、まりもにとって今必要なのは5年後まで練習を続けていくモチベーション。俺は考えた。
「まりもはまだ中学1年生だよね。来年大会に出場するときは2年生」
「うん」
「その時にさ、先にトライアスロンを始めている中3の子に勝てると思う?出場している誰よりも早くゴールできる?」
「どうだろう。体力差もあるし」
「勝つためには?」
「練習しないと」
「優勝を目指せばいいんじゃない?ひとまずそこで優勝。そこを目標にしようよ」
ちちちちちちちちち
「そうだそうだ、だって。裕子さん」
「え?」
ちょっと待て。なんて言った?
「裕子さんって言うんだよ。やもりの名前」
「まりもが名付けたの?」
「違うよ。自分で名乗った。臼井裕子って」
瞬時に俺は頭がくらくらした。
気づくと俺は立ち上がって、部屋の壁を見まわしていた。
「どうしたの?お父さん」
「なんでもない。出てこないね。臼井裕子さん」
「恥ずかしがってるのかな。お父さんのこと、前から知ってるらしいよ」
「うん」
聞いてるかな、臼井裕子さん。
俺はまりもの前で、立ったまま改まった。
「まりも。お父さんもトライアスロン、やっていいかな?クラブ入れる?」
「え?」
「トライアスロンクラブ」
「うれしいけど。あ。ダメだよ、お父さん」
「なんで?」
「喫煙者じゃん。やめないと入れない」
「やめる」
「ホント?」
「その言葉を待ってた」
ちちちちちちちちち
やもりが嬉しそうに鳴いたけど。
「もう!冷めちゃうよ!何やってんの、二人で!」
妻の怒鳴り声で、俺たちは急いで階段を下りたのだった。
<毎度の凶相 終>
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