刑事①

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刑事①

小学校低学年の女の子が迷子になって、路上で泣いていた。通り過ぎる大人たちは彼女に注意を向けるけれど、助けることをしなかった。それを見た小学校6年生の男の子が、見かねて彼女に声をかけ、一緒に交番まで連れて行った。 そんなニュースが、ネットに流れていた。 まあ。ひどい大人たちだな。 小6のこの男の子。えらい。 と言うのは簡単。そしてこれは、全く真っ当な意見。 でもね、でも。 実際、俺がそこにいたとして、果たして、この女の子に声を掛けられるだろうか。声をかけること。すなわち、「声かけ」。 俺は、住んでいる市のニュースをメールで毎日受け取っている。 俺のパソコンに送られる市役所のメール配信サービスには、市の催しや、各種届出のお知らせ、火災の情報の他に、不審者情報も含まれる。多くは、「声かけ」というジャンルの内容のもの。昨日は、こんな内容。 <9月9日15時30分ごろ、市内〇〇町2丁目15の路上で、女子小学生が不審な男に声をかけられました。「声かけ」の内容。「駅はどっちかな?」男は30代ぐらい。長身。黒っぽいシャツにジーパン。自転車に乗っていた> ふう。 ねえ。これさ、道聞いただけじゃないの? まあ、不審者情報の中には、明らかにヤバい人物のものも含まれているけれど、今回の件や「声かけ」の内容が「こんにちは」とされているものにいたっては、こりゃもう、過剰反応と言わざるを得ない。 これを、不審者情報として不特定多数にメールで送る担当者も担当者だ。 現代は子供に挨拶するだけで、「声かけ」をした不審者にされてしまう世の中。子供は、アンタッチャブル。おっかねえ。 しかし。 ホントに、この自転車に乗った黒っぽい服の長身の30代男性が道を聞いただけなのだとして、不審者だと疑われて、こんなメールが市内に流れているのを知ったとしたらどうだろう。 俺なら、もうその道、通れない。ひとり身で身軽なら、引っ越すかもしれない。そのぐらい心理的な負荷は計り知れない。 こうして俺はさっきから、風呂場の中。 ぶつぶつぶつぶつと、この件について巡り巡って考え、独り言。 そして、湯舟に浸ったまま胸苦しさに襲われている。 「はあ」 ため息をつくと、その時、何の前触れもなくタイルの壁の前の空間が突然裂けたのだ。 空間が縦に1メートルほど裂けて、そこから、よれよれのスーツを着たくたびれた中年の男が、身をかがめて潜り抜けてきた。 眼光鋭い。凶相だ。 昨日も、一人の漫画家が、同じように風呂場に現れた。 やっぱり、凶相。 こいつは? 「よ。風呂場に失礼。俺、しずかちゃんの風呂場に登場するのび太みてえだ」 「別にかまわないよ」 「のび太さんのエッチ、って言ってみて」 「あほか」 「あはは。しっかし。相変わらず長えな、お前の独り言。長くてしつこい」 「悪いか」 「悪かねえよ。俺も同じだ。お前、俺だしな」 「小川千尋?」 「ああ。小川千尋。48歳。お前と同じ」 「何してんの?仕事」 「刑事だよ。お前がならなかった俺だ」 「そっか。昨日来た俺は、漫画家だった。それも俺がなれなかった俺」 「ちょっとまった。お前がなれなかった俺、じゃないぜ。お前がならなかった俺だ。なれなかった、と、ならなかった、じゃ、えらい違いなんだよ」 「ああ。昨日の奴もそう言ってた」 「な。お前さ。小学生の頃、刑事になりがたがってたの、覚えてる?」 「ああ、勿論」 刑事の俺は、スーツ姿で革靴を履いたまま、べちょべちょのタイルに腰を下ろしたのだ。
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